第十八話 商人の理(ことわり)
ティアムーン帝国の南東……小国家群を抜けた先に巨大な港があった。
独立港湾都市「セントバレーヌ」は、神聖ヴェールガ公国が誇る平和の港だ。
かつて港の利権をめぐり、争いが絶えなかった近隣諸国に対して介入したヴェールガは、その土地を自国の領土として接収。その上で近隣国すべての商人に開放した。
さらには、複数の商会に声をかけ、商業組合を結成、その組合に港や町のインフラ整備などすべてを委託してしまう。ヴェールガが持つのは、「その土地を庇護する国が自国である」という名目のみ。実質的な利益に関しては、周辺国が共同で享受できる体制を敷いたのだ。
当初、周辺国からは不満が絶えなかった。どの国も利益の独占をもくろんでいたためだ。けれど、それらの国々も、港のもたらす恩恵を前に、やがては口をつぐむことになる。
商業が活発となることは、それだけで十分な祝福といえた。むしろ黄金を産み出す都市を抱え込めば、必ずや他国に狙われるだろうし、その防衛にも費用が掛かる。
であれば、むしろ、共同で利用できる港としておいた方が得であることは、明らかだった。
そうして生まれた平和の港は、今や大陸有数の商業の華やかなりし場所、商人の楽園として知られている。
その巨大港にて、マルコ・フォークロードは、自らの商会の持つ大型商船「金の福音号」を見上げてため息を吐いた。
「まさか、このようなことになろうとはな……」
旅立つ船が向かう先は、遥か海の向こう側、豊かな小麦の収穫のある国である。
それは、ティアムーン帝国皇女との契約に基づいたものだった。
「恐ろしい方だ。姫殿下は、今日のような事態になることを、予期していたのだろうか……」
娘が友誼を結んだ姫、ミーア・ルーナ・ティアムーンの顔を思い出し、思わず苦笑いを浮かべる。
「まったく、クロエ……お前はなんという方と友誼を結んだのだ……」
「おお、これはフォークロード商会のマルコ殿」
ふいに声をかけられて、マルコは顔を上げる。と、いつの間にやら、目の前には一人の男が立っていた。
鼻の下、くるんと巻いた口髭と、でっぷりと丸く突き出した腹が特徴の男……、愛想の良い笑みを浮かべつつも、決して芯からは笑わないその男のことを、マルコはよく知っていた。
「これは、シャローク殿……。久しいな」
男の名はシャローク・コーンローグ。広く大陸の各国に商品を卸している大商人である。
取り扱う商品は多岐に渡る。食料をはじめ絹織物から武器に至るまで。儲けになりそうなものは、なんでも売る。
その徹底した姿勢が、マルコは得意ではなかった。
商人としてはその冷徹さが圧倒的に正しいことも、自身はその冷徹さを持ちえないことも……、彼にはよくわかっていたから……。
けれど……、すでにそれも過去のこと。なぜなら、マルコは出会ったのだ……。
商人としての正しさ以上に輝かしいものと……。
――不思議なものだな……、彼と顔を合わせるたびに劣等感を刺激されたものだが……。
苦笑しつつ、マルコは首を振った。
「ふふふ、わかりますぞ。笑いが止まらんでしょうな。貴殿が海外より小麦の輸送を始めた時には、なんと愚かなことを、と思ったものだが……。今や、その小麦、仕入れ値の三倍は堅い。どうですかな? 馬鹿にした連中を見返す気分は……」
口髭を撫でながら笑うシャロークに、マルコは肩をすくめて見せた。
「そう言っていただけるのは、ありがたいが、先ごろ輸入した分に関してはすでに値段が決まっておりましてな」
「ほう? それは、もしや、かの帝国の叡智との契約のことですかな?」
シャロークは訳知り顔で言った。
「どこで、それを……?」
「はは、なぁに。耳を澄ませていれば、どこからでも噂話というのは聞こえてくるものでしてな」
商人にとって、情報は重要な武器だ。ゆえにマルコは、ミーアと交わした契約を、必要最低限の人間にしか話していなかったのだが……。
しばし、思案に暮れてから、マルコは諦めてため息を吐いた。
「まぁ、あえて隠し立てする必要もありますまい。そのとおり、ミーア姫殿下との契約によるものです」
「律儀にそれを守っていると?」
「無論。商人にとって契約は神聖不可侵なもの。まさか、破れとでも?」
「方法はいくらでもあるでしょうに。たとえば、帝国以外のもっと高く買ってくれる国で売りさばいて、帝国を後回しにするとか……」
マルコは、温厚な彼にしては珍しく、わずかばかりの怒りをもって問う。
「まさか、本気で言っていないでしょうね?」
「本気も本気。むしろそれこそが商人の業というものではないですかな? より金が得られる方法があるのならば、あらゆる知恵を使い、契約の隙間をかいくぐる。契約を守れとは、その方が長く商売が続けられて、儲かるからということに過ぎない。昨年の不作によって生じた小麦の価格の高騰、それを生かさぬは商人の名折れ。大陸全土を焼き払う戦でさえ、商売の種とするのが、金に忠誠を誓いし我ら商人でしょうに」
得意げに言うシャローク。かつては彼に羨望さえ抱いていたマルコは、過去の自分を恥じる。自分は、今までなにを見ていたのか……と。
「やれやれ……、どうもあなたとは話が合わないようだ。シャローク殿。どうか、あなたの商売がうまくいくように祈っていますよ」
「まったく、そうありたいものですな」
踵を返すマルコに、シャロークは暗い笑みを浮かべるのだった。