第四話 食べ物の恨みは怖い
季節は巡る。
それはミーアがだらだら冬休みを過ごし終え、セントノエルに発つ、五日前の出来事だった。
ミーアは、いつもの通り自室でルードヴィッヒの説明を受けていた。
「先ごろバルタザルから連絡がありました。食糧の価格が高騰し始めております」
その報告を聞いた時……、ミーアは、持ち上げかけていた紅茶をいったんテーブルの上に戻した。
「ふむ……。やはり、来ましたわね……」
声が震えないように苦労する。
ついに、その時が来てしまったのだ。
飢饉の兆候……、昨年から見え隠れしていた不作の影響が、ついに現れ始めたのだ。
「今はまだ問題ありませんが、近い将来、民の中に餓える者が出始めるでしょう」
「ふむ…………。で、対策は?」
ルードヴィッヒは、手にしていた羊皮紙の束をミーアの前に置いた。
「まずは、こちらをご覧ください」
それは、この二年間のルードヴィッヒの努力の結晶だった。
この二年間で準備した備蓄と、帝国の臣民を養うのに必要な分量の推計、現在、市場に流れている食糧の価格と、それがどの程度まで上がると、どこの住人が飢餓状態に陥るか、などのデータをまとめたものだ。
その数値は極めて細かいものだった。
ただ、貯めこんだ食料を配給すればいいというものではないのだ。それではとても足りない。そうではなく、外から輸入するもの、不作とはいえ帝国内で生産されるものなども当然、計算に入れなければならない。
その上で、現在、手元にある備蓄をどう取り崩していくのか……、その運用が問題だった。
「ふむ……」
ミーアは、羊皮紙を片手に顎を撫でつつ……、熟読してますよ! という風を装う。が……、実際のところ、細かい数字などは見ても全然わからなかった。
「なるほど……」
というか、そもそも”なにがどうわからないのか”すらわからないミーアである。
以前、ルードヴィッヒに怒られた状態である。
けれど、それも仕方のないことではあった。数字の羅列など、わからない人が見ても、ただの暗号にしか見えないもの。そして、ミーアは間違いなく”数字を見てもわからない人”なのだから。
ミーアは、分厚い資料をパラパラ眺めてから、降参とばかりにため息を吐き……、
「……よくわかりませんわね」
正直に言った。全面降伏である。
それは、言ってしまえば次善の策。あるいは、最悪よりはマシな選択肢だ。
ミーアはよく心得ているのだ。ルードヴィッヒなどの頭の良い相手と会話する際、わかっていないのに、わかってるふりをするのは最悪なことだ。
どこがわからないかもわからない状態、まったく理解できない状態で質問することも、ぐちぐち文句を言われるので、正直、やりたくはないのだが……、それでも、わからないことを放置するよりはマシなのである。
ミーアはそう判断して、正直にルードヴィッヒに伝える。と、
「申し訳ありません。情報が完璧でないのは承知の上です」
ルードヴィッヒは苦々しげな顔で頭を下げた。
「残念ながら、帝国各地の貴族については不確定の要素が多く……。現在どのぐらいの備蓄をしているかは、ある程度判明しているものの、その動きを予測するのは、極めて困難です」
けれど、とルードヴィッヒは続ける。
「民に被害が及ぶことに不確定な要素が絡むのは、望ましくありませんが……。それでも、恐らく、ある程度の余力を持って乗り切れるのではないかと予想できます」
「ふむ……、なるほど。それは朗報ですわね」
数値の意味は分からないが……、まぁ、ルードヴィッヒが大丈夫って言ってるので大丈夫なのだろう、とミーアは理解した。
その上で、ミーアはルードヴィッヒの方を見つめた。
「一つだけ、言っておきますわ、ルードヴィッヒ」
「は……、なんでしょうか?」
「このことで……、敵を作らないようにしなさい」
まるで、この世の真理を知る賢者のような、ものすごーく悟りきった顔でミーアは言った。
そう……、ミーアは知っている。食べ物の恨みは、根強くて重いのだ。
ミーアは、自身のことを慈悲深く温厚な姫であると思っている。どちらかと言うと、柔和で寛容な、思いやりに溢れた姫だと思っている。
……自己評価が若干甘めなミーアなのである。
それはさておき、そんなミーアであっても、食べ物の恨みには抗しがたいものがあるのだ。目の前でケーキを落とされれば激昂するし、それが最後の一つだと聞かされれば、思わず我を忘れてしまうことだってあるのだ。
だからこそ……、ミーアは思う。
この食糧の配給に関して、民の恨みを買うことは得策ではない、と。
「むしろ、それを使い、すべての者を味方とできればベストですわ……」
それこそが、ギロチンから遠ざかる道……。過去の反省を胸にミーアは言った。
「そのことを、どうか忘れないように、お願いいたしますわね」
「……はっ、かしこまりました。心に刻みます」
深々と頭を下げるルードヴィッヒに、ミーアは満足げに頷く。
「では、とりあえずは、セントノエルに戻っても大丈夫そうですわね」
「ええ。当面はミーアさまのお手を煩わせるようなことはございません。こちらが、皇女専属近衛部隊から届いた、セントノエルへの移動計画書になりますが……」
「ふむ……」
ミーアは、羊皮紙に目を落としてから、小さくうなり声を上げた。
――ルードヴィッヒは当面は大丈夫だと言っておりましたし、実際にはまだ飢饉は始まってもいないわけですけれど……、やっぱり不安になってしまいますわね。
食べるものがなくなるかもしれない……、その不安感は人間にとって極めて深刻なものだ。
貯めこんでおいた備蓄が、徐々に削られていくのを見るのも、非常に不安を覚えるもの。考えるだけで、お腹が痛くなってくるミーアである。……食べ過ぎのせいではない。断じて。
その不安の解消のために必要なことは、来年も今年と同じぐらい農作物が実ることへの信頼だ。
食べた分、明日、同じだけ手に入ると思えばこそ、今日、満足に食事ができるのだ。
――わたくしの心の平穏のためには、備蓄を取り崩すばかりではやはり心許ないですわ。無論、クロエのお父さまにも、ペルージャンにも頑張っていただきたいところですけれど……。同時にもっと根本的な解決策を立てる必要がありますわ。わたくしの……。
「…………心の平穏のために根本的な解決策を……」
「? なにか、おっしゃいましたか?」
「ん? いえ、なんでもありませんわ。そうですわね。途中で、少々寄り道をしたいから、少し計画を変えていただきましょう」
「寄り道、ですか?」
「ええ、ベルマン子爵領に……」
「ベルマン子爵領……ということは、学園都市に行かれるのですか?」
首を傾げるルードヴィッヒに、ミーアは小さく頷いた。
「ええ、そうですわ。アーシャさんに、少しお話がありますの」