第三十七話 冷たい優しさ
転ばせるとは言ったものの、ミーアは別に足を引っかけたり、といった露骨な行動をとるつもりはなかった。
もちろんミーアほどの者になれば、こっそり足を引っかけることなど造作もないことだ。
しかし、足首まで隠れるドレスならばともかく、スカート丈の短い今のドレスでは隠しきることは難しい。
それに、そもそもミーアは別に積極的にシオンに攻撃したいわけではない。
なにせ下手にシオンの怒りを買っては、ギロチンルートに直行してしまうかもしれない。
――ま、足をかけずとも、どうせわたくしの全力のダンスについてこられなくって、足をもつれさせるに決まってますわ!
などとたかをくくっていたのだ。
――わたくしについてこれずに転ぶ、無様な姿を晒すがいいですわ!
完璧極まる作戦だったのだ……ミーアの中では。
その結果……、
「お淑やかなお姫様かと思ったが、意外とじゃじゃ馬なんだな」
爽やかかつ、余裕の笑みを浮かべるシオンの姿が、目の前にあった。
――そ、そ、想定外ですわ!
内心で悲鳴を上げつつも、難しいステップを踏む。
くるり、くるりと軽やかに舞う様は、花畑に舞う可憐な妖精のようで、美しく輝く肌は、月光の女神のようで……。
ダンスに興じていた者たちも動きを止め、いつしか踊っているのはミーアたちだけになっていた。
始まってすぐは、シオンのリードが上手いだけだ、などと揶揄していた者たちも、すぐに黙らざるを得なくなった。
一人だけダンスが上手くても、空回りするだけだということは、貴族の子女であれば誰しも知っていることだった。
見るものを魅了する華麗なダンスは、双方の技量が高いからこそ実現するものなのだ。
軽やかにミーアが回る。
その体を優しく受け止め、次の動きへと流れるようにいざなうシオン。
優雅にして華麗なリード。
柔らかに抱きとめられて、不本意ながらミーアはほんの少しキュンとしてしまう。
――ああ……素敵……じゃありませんわ! ありえませんわ! こいつが素敵なんて感じるなんて、ありえませんわ!
ミーアが激しい葛藤に身悶えしていたそんな時……、偶然にも、彼女の視界に入ってきたものがあった。
それは……。
――あら、あれは、アベル王子?
グラスを二つ持って、バーカウンターの方へと向かうアベルの姿だった。
手に持った空のグラスを見て……、ミーアは思わず微笑ましい気持ちになってしまった。
――お優しい方、なのですわね。
やがて、曲が終わりを迎える。
スカートの裾をちょこんと持って、優雅に一礼するミーアに、
「どうかな? ミーア姫、できれば、次は静かなものも一曲付き合ってもらいたいが……」
「いえ、遠慮しておきますわ。シオン王子、あなたには、もっとふさわしい方がいらっしゃるのではないかしら?」
お前じゃ力不足だよ! というニュアンスで言ったのだが、完全なる負け惜しみである。
キョトンと瞳を瞬かせるシオンに一礼すると、ミーアはその場を後にした。
「アベル王子!」
やってきたミーアを見て、アベルは少しだけ意外に感じる。てっきり、もう二、三曲は踊ってくるものだと思っていたのだ。
それぐらいに、二人の息は合っていたのだが……。
アベルは、飲み物のグラスをミーアに渡し、笑顔を向ける。
「やあ、ミーア姫。素晴らしいダンスであったよ」
「あら、それはありがとうございます」
はにかむミーアがまぶしくて、アベルはつい視線を外してしまう。
「それにしても……かなわないな」
「なにがですの?」
「シオン王子さ。ボクでは、残念だけど、君の魅力をあそこまで引き出すことはできないからね」
次こそは負けないと、どれだけ意気込んでも、くじけてしまいそうになる圧倒的な実力差。
けれど、ミーアは……、
「これ、ありがとうございます。冷たくて、とても美味しいですわ」
アベルが持ってきたジュースに口をつけて……、
「あなたは優しい素敵な方ですわ、アベル王子」
「自分の分だけ飲み物を取ってくる男と思われていたのなら、心外だが……?」
「ダンスが、動きが激しいものだと見て、取り替えに行ってくれたのでしょう?」
そう指摘され、思わず、アベルはぽかんと口を開ける。
そうなのだ、アベルはダンスが始まってすぐに飲み物を取ってきたのだ。けれど、ミーアのダンスを見て、暑くなるだろうから冷たい物の方がいいだろう、と途中で取り替えに行ったのだ。
「アベル王子、どうかご自分を卑下しないでください。あなたは、とても素敵な方ですわ」
その言葉は、ミーアにしては珍しく嘘偽りのない、心からの優しい言葉だった。
はじめてだったのだ、同年代の男子に優しくされたのは。
皇女としてではなく、女の子として優しくしてもらったのは……。
だから、嬉しくって、ついついらしくないことを言ってしまったのだ。
「でも、できればボクは、ダンスでもシオン王子に負けたくないのだが……」
「でしたら、わたくしが稽古を付けて差し上げますわ。厳しくいたしますから、覚悟をなさるとよろしいですわ」
この日、ミーアは生まれて初めて、心ときめくダンスに興じることができたのだった。