第九十六話 ……サクサク!
コトリ……。
ふいに、茫然自失状態のミーアの耳が、一つの音をとらえる。
それは、机の上にお皿が置かれる音。そちらに目を向けると……。
「あっ……」
先ほど、ローレンツが食べていたクッキーが山盛りになっていた!
どうやら、ビセットがタルトを食べ終えたミーアのお皿を下げ、代わりにクッキーを持ってきてくれたらしい。
――ふむ……、さすがは、敏腕執事! できる男ですわ!
早速、クッキーに手を伸ばそうとしたミーアであったが……、ふと、ルードヴィッヒ、そして、ローレンツの視線が集まっていることを知覚する。ついでに、後ろからは、ディオンがニコニコしながら、ミーアに視線を注いでいる……。ニコニコしているはず……なのに、その目は……全然笑ってない!
――い、いけませんわ。ここは、ふざけて良い場面ではなさそうですわ。
ミーアは、ふぅ、っとため息を吐き、クッキーから視線を外した。
――そう……、クッキーは逃げませんわ。タイミングを見計らって食べればいいだけの話……。今は、その時ではありませんわ。
それからミーアは改めて、ローレンツとの会話を思い出す。サクサク……。
「……地を這うモノの書」
その名前には、聞き覚えがあった。
「ラフィーナさまが言ってましたわね。確かジェムという男が、写本を持ってたやつですわ……」
ミーア自身は実際に読んでいないものの、なんだか恐ろしげな本なのだなぁ、などと感じたことを、ミーアは思い出した。サクサク……。
「はい、確かに写本ですが、あの者はそれを持っておりました」
「しかし……、それはいったいどんな書物なんですの?」
ミーアの問いかけに、けれど、ローレンツは首を振った。
「残念ながら、私も直接見たことはないのです。以前、ジェムが持っていた写本「国崩し」を唯一見ただけで……」
それから、ローレンツは苦笑いを浮かべた。
「どうも、バルバラは私のことをあまり信用していなかったようで。まぁ、実際、こうして裏切りを企んでいたわけなので、彼女の見立てに間違いはなかったわけですが……」
「そうなんですの……。それは残念ですわ……。しかし、人々を結び付けるとか、操るとか、まるで……魔法のようですわね。もしや、地を這うモノの書とは魔法の書なのかしら?」
そう言えばエリスの原稿に、そんなようなものが出てきたような……などと思い出すミーアである。サクサク……。
「魔法……でございますか……」
ローレンツは、きょとん、と首を傾げてから小さく笑った。
「あら、どうかなさいまして?」
「いえ、姫殿下の口から、魔法という言葉を聞くのは、いささか意外でしたので……」
それから、彼は表情を引き締めてから言った。
「しかし、なるほど、確かに魔法というのは言いえて妙かもしれません。それは魔法のように人々の心を変えてしまうもの。秩序を破壊する存在へと、その者の人生を変容させていく。その力は魔法と呼んでも差し支えないかもしれません。ああ、そんな顔をしないでくれ、ルードヴィッヒ殿」
と、そこで、ローレンツは、ルードヴィッヒの方を見て苦笑した。
「別に、私は魔法などという不可思議な力があると思ってはいないのだ。そんなものがなくとも、人の心を操ることは可能だと思うしね」
「まぁ、そのようなことができるというんですの?」
半信半疑といった様子で首を傾げるミーアに、ローレンツは笑った。
「そうですね……。例えば……、ミーア姫殿下は、本などは読まれるのでしょうか?」
「はて……? 本ですの? まぁまぁ読むほうだと思いますけれど……」
ミーアは、ここ最近の読書遍歴を思い出した。サクサク……。
「最近ですと、友人が持っていた恋愛小説を楽しく読ませていただいておりますわ」
突如、自らの得意分野の話になったため、ミーアは少しばかり饒舌になる。
「特に、騎士と姫の恋愛が実に、こう……。湖のシーンがですわね、素晴らしくて……」
「ふふふ、なるほど。それでは……、その本を読んで、恋をしたいと思われましたか?」
「はて……恋ですの? そうですわね……。確かに、ああいうものは素敵だと思いますけれど……」
ミーアは、妄想する。
アベルとともに湖の湖畔に行き……、夜、月が浮かぶ星空を見上げながら……。
イチャイチャと愛を語らいあう、ラブラブ空間を妄想して……。
――いい、いいですわ! 実にいい!
ミーアは、本に、大いに影響を受けていた!
「では、仮にの話ですが……、もしも、読んだ者にことごとく恋をしたいと思わせる……、そのような本があるとするならば、それは他者の心を動かす「魔法の書」ということになりはしませんか?」
「それは……」
思わず、ミーアは思わず考え込んでしまう。なるほど……、確かに、心を動かすだけであればそれは……普通の小説であっても問題ないのかもしれない。サクサク……。
そう、恋愛に限らず、ミーアは知っているのだ。
あの絶望の地下牢において……、自分の心を少しだけ明るくしてくれた物語のことを。
エリスの書いた物語は、確かにミーアの心に影響を及ぼし、ただ絶望に暮れるだけだった日々を、ほんの少し変化させたのだ。
「しかしそれは、実際に現実を変える力などではないでしょう。魔法というのは、いささか、誇張のように思えますが……」
そんなルードヴィッヒの言葉に、ローレンツは穏やかな笑みを浮かべて、首を振った。
「ルードヴィッヒ殿、君は少し誤解しているな。いや、君だけではない。多くの知者は誤解しているのだ。我々の心と、現で起きる出来事は、君たち知者が考えるよりも遥かに関係が深いのだ」
そうして、ローレンツは瞳を閉じる。
「そも、世界を作るものとはなにか? それは人だ。人が町を築き、国を築き、文化を築き、学問を築く……。では、人を支配するものは何か? それは心だ。あるいは、その者の持つ価値観だし、世界観だし、信仰なのだ」
「つまり……、蛇の教典『地を這うモノの書』は、読む者の心に「秩序を破壊する欲求」を植え付ける……、そのような本だと、あなたはおっしゃるのか……」
ふと、そこで、ルードヴィッヒは首を傾げた。
「いや、しかし……、あのジェムという男が持っていた写本には、確か、国を滅ぼすための方法論が書かれていたのでは?」
ラフィーナの手によって回収された、教典の写本はいかに国を滅ぼすのか、という実践の書だった。
読者の心を洗脳する類の内容ではなかったのではないか? と……、そんなルードヴィッヒの問いかけに、ローレンツは、深く首肯する。
「そう。あれに書かれていたのは実際的に、どのような行動をとれば国という秩序を破壊できるのか……、その具体的な方法だった。だがね、ルードヴィッヒ殿、剣を差し出して憎き者を殺せと唆すのと、何も持たずに殺せと言うこと、どちらが誘惑として有効だろうか?」
ただ曖昧に国を滅ぼせと言われるのと、具体的な方法を提示して、このように国を滅ぼせと言われるのと、どちらが誘惑として有効だろうか。そんなものは……、考えるまでもない。
「そのようなものが……、あるのですのね。それで、それはいったいどこに?」
「蛇の教えを伝える者、蛇導士たちは、写本を常に持ち歩いていると聞きますが、それは、地を這うモノの書の一部でしかありません。また、高位の蛇導士たちは、その内容を一字一句記憶しているとも聞きますが……、その原本のありかははっきりとしたことが分かってはおりません」
その答えに、落胆するミーアであったが……。ローレンツは、重々しい口調で続ける。
「ただ、中央正教会に聖女ラフィーナさまがいるように、蛇たちにも、巫女姫と呼ばれる、蛇導士を取りまとめる者がいる、と聞いたことがあります」
「蛇の、巫女姫……?」
「ええ、そして恐らくは……、その人物が地を這うモノの書の本体を持っているのではないかと……」
ごくり……、と生唾を飲み込みながら、ミーアは……そっと近くのお皿に手を伸ばした。
今がタイミングだ! と思ったのではない。我慢できなかったのだ。
そろそろ一枚ぐらい食べてもいいタイミングなはず……。
けれど……、その手はスカッと空振りする。
――あ、あら? 変ですわね、先ほどの美味しそうなクッキーは……?
と、視線を向けると……、
「ミーアさま……食べすぎです」
眉をひそめた顔のアンヌが、じっと見つめていた。
「タルトとクッキーを五枚……、お話ししながら、サクサク食べられていました」
「……はぇ?」
そんな馬鹿な……、と、ミーアは自らの口元を触った。
口の端に…………クッキーの欠片がついていた!
――なっ、そっ、そんな、いつの間に……?
「これ以上、お食べになっては、太ってしまいます」
「でっ、でも……でも……」
無意識に食べてしまったせいで、まったく味わえなかったミーアである。
その顔が、ちょっぴり悲しそうな色を帯びる。っと、その目の前に、一枚のクッキーが差し出される。
「もう、ミーアさま……。最後の一枚ですよ」
困ったような笑みを浮かべるアンヌに、ミーアは満面の笑みを向ける。
「ああ、やっぱり、あなたは最高の腹心ですわ。アンヌ!」
……実にいつもの風景なのであった。