第九十四話 ティアムーン帝国というシステムとイエロームーンの役割
ローレンツは、改めてミーアの行動に驚愕を禁じえなかった。
――毒が入れられている可能性を……一切考慮に入れないのか……。
タルトをあっさりと口に入れ、満面の笑みで、美味しいというミーア。
確かに、この時点で、自分たちがミーアを害する可能性は限りなく低い。
この時点での、皇女ミーアとの敵対は、イエロームーン家の破滅を意味する。ローレンツだけでなく、シュトリナとて無事では済まない。
合理的に考えれば、それは自明の理であって……、だからこそ彼女はなんの疑いもなく食べたのだろうが……。
――いや、違うな……。
ローレンツの目は、見逃さなかった。
ミーアの手が、小さく震えていたことを。
それに、ずいぶんと熱心に、ビセットの手元を眺めていたことも。
――そうだ。頭の良い者であれば、毒を混入される可能性を考慮しないわけがない。確かに、可能性としては低いかもしれないが、それでも疑いを完全に捨て去ることなどできない。それができるのは能天気な愚か者だけだ……。
ミーアは、毒殺の可能性をきちんと頭に入れていた。その上で、毒が入っているかもしれないのに、あえて自分から先にタルトを食べたのだ。
恐怖を飲み込み、必要のために食べたのだ。
ローレンツを信頼しているということを、しっかりと表明するために。
――決して、蛮勇ではない。毒を食べるリスクと、我々イエロームーンの信頼を勝ち得ることとを天秤にかけて……、選んだのだ。しかも、その前には、あっさりと、シュトリナの大罪を水に流すと言ってくださっている……。ああ、この方は、なんという……。
ローレンツは、短く瞑目する。
まぶたの裏に、ふと、少年時代の恩師の顔が思い浮かんだ。
『なにかを為したいのなら知識を持ちなさい。例え、今は自分がなにを為したいのかわからなくとも、知識を身に着けることをやめてはいけません。なにかを為したいと思える日が来た時のために、弛まず知識を身に着け、そして、流れが来るのを待つの。いいわね』
目を開ける。と、目の前の、幼い皇女殿下に、その面影を見たような気がして……、ローレンツの中に、懐かしい気持ちがこみ上げてきた。
小さく息を吐き、それから彼は口を開いた。
「では、初代皇帝陛下と我らイエロームーン公爵家の盟約についての話から……」
そうして彼は語りだした。
長きに渡り、イエロームーン公爵家を縛り続けてきた呪いの話を。
「初代皇帝陛下と、我がイエロームーン公爵家の祖先は、もともと血縁関係にあったようです。そして二人は……、この世界に絶望していた。だから、世界を壊してしまおうと思った」
そのための反農思想。そのためのティアムーン帝国。
それは、世界を巻き込んだ巨大な復讐劇。
「その中でイエロームーン公爵家に与えられた役割は二つありました。一つは、すでに姫殿下もご存知かと思いますが、帝国並びに蛇にあだなす者を秘密裏に排除すること。そして……、もう一つは……、次の皇帝となること」
「次の皇帝……? それはどういう……」
首を傾げるミーアに、ローレンツは肩をすくめた。
「文字通りの意味です。つまり、飢饉と革命によって、現帝室が倒れた際には、次なる王朝を継ぐように、と。そのように裏で工作し立ち回ること……。そして、次の皇帝あるいは国王となり、再び反農思想の浸透に努めるのが、イエロームーン公爵家に与えられた役目。再び革命がおこり、倒されるその日まで国を率いていくのが、我らの役目であり、褒美なのです」
三日月を涙で染め上げる帝国というシステムは、自壊することを前提とした仕組みだ。
反農思想によって農地を潰し、飢餓によって革命を呼び込み、泥沼の内戦、殺りくによって大地全体を呪う。しかも、ただ一度それを行うわけではない。それを何度も繰り返すための仕組みだ。
だからこそ帝室の次に国を率いる者が賢明な王であってはならなかった。革命を起こす者はあくまでも単なる秩序の破壊者でなければならず、“次に来る新しい秩序のために、古い秩序を破壊する者”ではいけなかったのだ。
ゆえに……、
「ティアムーン帝室が斃れた後に、イエロームーンの王朝が……、その王朝が倒れた後には、さらに別の、秩序の破壊者が支配者として君臨する。そうして、幾度も血を流し、死を積み上げ、大地を穢していくのが、初代皇帝の作った仕組みです」
「ふむ……、しかし、いったいなぜ、そのようなことに関与し続けたんですの?」
ミーアが不思議そうな顔で言った。
「帝室が、未だに初代皇帝の志を継いでいるのであればともかく、わたくしは、そのような話を聞いたことはございませんでしたわ。お父さま……、皇帝陛下もご存知ないのではないかしら?」
「はい。帝室ではすでに、幾世代か前の時点で、初代皇帝陛下の遺志は忘れ去られておりました。けれど我らイエロームーン公爵家は、最初の盟約を希望として暗躍を続けたのです」
それは、初代皇帝がかけた呪いだった。
次なる皇帝を担う者は、四大公爵家の中で最も弱く、蔑まれるものでなければならない。その支配体制から恩恵をもらう者であれば、革命を起こし、その体制を破壊しようなどとは思わないから。
そうして、イエロームーン公爵家は、四大公爵家の中で、取るに足りないものとして扱われていき……、世代を経て、その扱いに対する憎悪は、屈辱は……やがて自分たちが支配者となる未来への強い渇望に変わっていった。
『弱く蔑まれる境遇は、いずれ来る繁栄のため。この帝国が滅びた時、自分たちの時代が来る!』
その思いにすがればすがるだけ、蛇への協力の姿勢は強固なものとなったのだ。
『自分たちの父も母も、祖父母も、先祖も……また、この境遇に耐えてきた。それは後に来る繁栄のため。次の皇帝になるため。今までの先祖の屈辱を無為にすることはできない』
それはまた、損切りができなかった、ということでもあった。
一族がここまで耐え忍んできたことを、自分の代で潰して良いものだろうか?
親から、教え込まれ、託された願いを……希望を……、自分の代で潰えさせることはできるものだろうか?
「それでも……、私のように荒事を好まない当主もいなかったわけではないと思います。けれど、そのような者たちも、蛇にからめとられていった。一度でも、手を血に染めてしまえば、蛇はそれを脅迫に使う。ただ一度の暗殺が自らを縛る枷となり、脅しの材料となる。そうして抗うことに疲れた者たちは"やがて来るひと時の繁栄のみ"を望みとして、蛇の傀儡となったのです」
だからこそ……、ローレンツは、暗殺に関与したくなかったのだ。
「なるほど……、そういうことでしたか……」
ミーアの隣で、ルードヴィッヒが頷いた。
「しかし、よく暗殺に関わらずにいられたものですね。私などでは、早々に心が折れてしまいそうです」
肩をすくめるルードヴィッヒにローレンツは穏やかにほほ笑んだ。
「ある方に励ましていただいたのだ。ルードヴィッヒ殿。その方は私に言ったのだ。もしも、なにかを為したいならば知識を持て、と。弛まずに、諦めずに知識をつけ、そして、流れが来るのを待て、と」
少年時代にかけられた言葉……。それを胸に、ローレンツは知識の研鑽を進めた。
そして……、流れは来たのだ。
「まぁ、そのような方がいたんですのね」
感心した様子で言うミーアに、ローレンツはそっと微笑む。
「はい。先代の皇妃さま……。あなたの、お祖母君にございます。ミーア姫殿下」
「まぁ、わたくしのお祖母さま……? わたくしは、お会いしたことがありませんけれど……」
「面影が少しおありですよ。あの方も……、聡明な方でしたから」
「ほう……、わたくしのように聡明……」
ミーアは、ふむ、と頷いてから、神妙な顔で言った。
「それは、ぜひお会いしてみたかったですわね……」
……一切、聡明の否定はしない、ちょっぴりおこがましいミーアであった。