第九十二話 かくて、古き盟約は砕かれん
「バカな……馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な……。あり得ないことです、こんなこと、絶対にあり得ない。このような結末、あり得ていいはずがない……」
憎悪に歪んだ顔で、バルバラがつぶやく。地の底から響くような、おぞましい声で……。
それから、彼女は憎しみのこもった眼でミーアを見つめ、次に、ローレンツとシュトリナの方を睨みつけた。
「忌々しき帝国の叡智ミーア姫……、ふふふ、なるほど、見事な沙汰。後ろの王子たちにも不満はないようで……。ですけれど……」
不意に、その顔がくしゃっと笑みを浮かべた。
「そうそう思惑通りに事は運びませんよ。こうなれば、薄汚い裏切り者のイエロームーンの首を刎ねて、一矢でも報いて差し上げましょう」
バルバラの言葉に反応して、三人の男たちが動き出した。
位置的にミーアたちでは、どれだけ急いでも助けには入れない距離。唯一そばにいるのは、執事のビセットのみという状況。
荒事の気配が濃厚に匂い立つ。
……けれど、ミーアは心配していなかった。すでに、勝負は決しているからだ。すなわち……。
――ああ、やっぱり、不穏な空気にひかれて出てきましたわね……。悔しいですけれど、やはり、あの方がいると安心できますわね。
ミーアの瞳は、バルバラたちの後方より、こっそりと忍び寄る男の姿を捉えていた。
現れた男、帝国最強の騎士、ディオン・アライアは、にっこにこと、まるで悪戯を企む少年のような笑顔を浮かべつつ、三人の男たちを瞬時に殴り倒した。
それから、未だ気付いていないバルバラの背後に歩み寄ると、その肩口に、とん、と刃を置いた。
その光景を見たミーア、思い出す。
――ああ、あれ、怖いんですのよね。いつ首を落とされるかって……。
剣での肩ポンも、ギロチンの首ドンも、すでに経験済のミーアである。
ちょっぴりバルバラに同情すら覚えてしまう。まぁ、だからと言って、ディオンを止めたりはしないが……。
「……え?」
突然のことに、理解が間に合わないバルバラに、ディオンは笑顔で言った。
「あはは、ちょっと諦めが悪いな。この僕に、誰も対処できないって戦うという選択肢を捨ててたんだから、最後まで貫徹しておけば、彼らも痛い目に遭わずに済んだのに」
慌てた様子で、辺りを見回したバルバラは、すでに昏倒している仲間たちを見て、ギリッと歯を噛み締める。
「くっ、愚かな……。忌々しい……。ディオン・アライア、帝国の犬め」
「あはは、帝国最強の犬か。その二つ名も悪くないな。犬に首筋を噛み砕かれて死ぬといい」
などと言い出したので、ミーア、慌ててストップをかける。
「殺さないようにお願いいたしますわね。なにか、有益な情報を引き出せるかもしれませんし、ラフィーナさまに引き渡したいですわ」
「相変わらず甘いなぁ、我らが姫さんは」
などと肩をすくめつつ、ディオンはバルバラの腕を拘束する。
それをしり目に、ミーアの横を駆けていく者がいた。それは……、
「リーナちゃんっ!」
すべてが片付いたと見たか、ベルが一目散にシュトリナのもとに走り寄る。
ベルはそのままシュトリナに飛びつくと、思い切り抱きしめた。
「リーナちゃん! リーナちゃんっ!」
ぎゅうぎゅうと、ベルに力いっぱい抱きしめられたシュトリナは、ポカンと虚空を眺めていた。
事態の急変についていけていないのか、まるでお人形さんのように、一切の表情もなく、ただただ呆然としていたシュトリナだったが……。
「……ベル、ちゃん?」
やがて、その灰色の瞳に、薄く涙の膜が現れて……。見る間に量を増していく涙は、宝石のような粒となり、やがて、ぽろぽろ、ぽろぽろと、その幼い頬を伝い落ちた。
「ベル……ちゃん……」
唇をぱくぱくと開閉させつつも、震える声が紡ぐのは、ただその名前のみ。
大切な親友の名前のみで……。
やがて、その言葉さえも形をなくし、後に残るのは、言葉にならない少女の嗚咽のみ。
「リーナちゃん……、大丈夫。ボクは、ここにいますから……、ずっといますから」
その友の背を、ベルは優しくさすってやるのだった。
「ああ…………終わった……というのか?」
泣き崩れる娘の姿を見ても、ローレンツは立ち上がることができなかった。
自身の命を狙っていた刃もすでになく、その行動を阻害する者はなにもないというのに……、地面にへたり込み、立てなくなっていた。
実際のところ、本当の意味で、初代皇帝との盟約を断ち切ることができるのは現皇帝のみである。
ローレンツは、そのことをしっかりと理解していたし、恐らくミーアもわかっているのだろう。
しかし、その上で彼女が、そう口に出したことに意味があるのだ。
――ミーア姫殿下のあのお言葉があれば、仮に暗殺の指令が来たとしても、突っぱねることができる。それに、皇帝陛下のミーア姫殿下への寵愛は厚い。だから、ミーア姫殿下が言ったことであれば、きっと耳を傾けていただけるはずだ。
それでも……、彼は、未だに安心できずにいた。
なにしろ、建国以来、ずっと彼らを縛り続けてきた鎖だ。
自身が生まれた瞬間から、背負うように義務付けられていた呪いなのだ。
それが、こうもあっさりと……、ただの一滴の血も流されずに終わったことが、とてもではないが信じられなくって……。
ただただローレンツは、現実味のない光景を眺めていることしかできなかった。
「呪われよ、イエロームーン。いつの日にか、お前たちの首元に、蛇が噛みつく日が来るでしょう」
不意に耳に届いた声……。バルバラの、負け惜しみのような呪いの文句を聞いた瞬間に……、ようやく、ローレンツの胸に実感が沸いてきた。
そうだ、自分たちは、ついに……、ついに。
「ああ……バルバラ……、混沌の蛇を体現する者よ。今、私は、万感の思いを込めて言うことができるよ」
それは……バルバラに向けて言っているようで、けれど、きっと彼女に放たれたものではなかった。
それは、彼ら一族をずっと縛り続けた混沌の蛇に対して……、あるいは、彼らに苦境を強いた初代皇帝に向けて……。
晴れやかな顔で、ローレンツは言った。
「ざまぁみろ、混沌の蛇」
高々と、朗らかに……。
「ざまぁみろ、くそったれの初代皇帝!」
放たれるは、イエロームーンの叫び。
かくて……、彼らを縛っていた古き盟約はここに打ち砕かれた。
帝国の叡智、ミーア・ルーナ・ティアムーン。
初代皇帝の血を引く、若き皇女の手によって。