第九十話 イエロームーン公爵は毒に詳しい
名前のない男、顔のない男、灰色の男……今、ビセットと名乗っている初老の執事。
彼との出会いはローレンツの、そして、イエロームーン家の運命を大きく変えるものだった。
幸運も味方した。
それまで幾度かあった蛇からの暗殺の指令……、そのことごとくをローレンツは、のらりくらりとかわしていた。
彼は知っていた。
蛇は……人の心の隙を突く。弱みを突く。傷を突く。
人の心を操るは、蛇の得意とするところ。
そして、彼の父は、祖父は、殺しに手を染めたことを、いつでも利用され続けた。
他のことはともかくとして、殺人だけは、どうやっても取り返しようがない。
一度でも、手を染めてしまえば簡単に蛇にからめ取られて、身動きが取れなくなる。
そのような連鎖に巻き込まれたくはなかったし、それ以前に、ローレンツは人を殺したくなかったのだ。
彼は痛いのも苦しいのも嫌な、小心の持ち主だったのだ。
最初の一度をやってしまうと、もう後戻りはできない。
それを洞察していたローレンツは、言葉巧みに回避し続けた。
けれど、いよいよそれも難しくなった時……、蛇から下された命令こそが、ビセットの殺害だった。
その当時、混沌の蛇は、サンクランドの諜報部隊、風鴉の内部に、自分たちの手の者を潜り込ませることに成功していた。
そう、ジェムである。
そんな彼らにとって、実力者であるビセットは邪魔だったのだ。
仲間の裏切りにより窮地に陥っていたビセットを、ローレンツは、殺したと偽って助けたのだった。
以来、ビセットはずっと、執事としてローレンツに仕えている。
もともとが、凄腕の諜報員である。蛇とはいっても、しょせんは素人であるバルバラたちを欺くのは、容易いことだった。
そうして……、ローレンツは手に入れたのだ。
要人を秘密裏に国外へと逃がすルートと、有力な協力者を……。
「諜報において、現地の協力者は宝も同じ。ゆえに、その情報は仲間にだとて明かしてはならない……。それが、あの方の教えです。そして、事実、ビセットさんは、誰にも、帝国内での協力者の情報を明かしませんでした」
ミーアの後ろに控えた二人のメイド、その内の一人が補足する。
――あれが、元風鴉のモニカ嬢か……。
ローレンツは、自らの持つ情報と、その場にいる人間とを一致させつつ、頷いた。
「私一人でできることではなかった。暗殺の対象者を安全な国に運ぶことも、崖から馬車ごと落としたように見せかけることも、私には不可能だった。すべては、彼の力だよ」
「ありえない……、ありえないことです」
混乱した様子で、バルバラは首を振る。けれど、否定はできないだろう。
死体が出てこなければ、生きていたってわからない。
海外に人相書きを送ったりも、恐らくはしていないはずだ。なぜなら、その必要がなかったから。自分たちが騙されるだなんて……思ってもみなかったから。
「ふふふ、騙されるものですか……。そう、私は死体を実際に見ておりますよ。お館さま……、あなたの特製の毒で息絶えた者の死体を……」
「私の特製の毒か……。そういうこともあったな。なにしろ、私は毒に詳しいからね……。バルバラ……、君が、太刀打ちできないほどに」
「あ……あ」
そこで、なにかに気が付いたのか、バルバラが目を見開いた。
そう……、それは、少し考えれば、わかることだった。
イエロームーン公爵は、植物に詳しい。薬に詳しく、毒にも詳しい。
それは、周知の事実だった。
けれど……、もしも殺すだけならば……、その知識はどこまで必要だろうか?
ありとあらゆる毒に通じることが……、暗殺者に必要なことなのだろうか?
……そう、答えは否なのだ。もしも、殺すだけでいいならば、いくつもの種類を知っておく必要はない。例えば、火蜥蜴茸のように、一発で相手を死に至らしめる毒を、数種類知っておけばいいだけではないか。
では……、なぜ、一瞬で死に至らしめる強力な毒を知りながら、弱い毒、いろいろな効果のある毒まで知識として知っておかなければならなかったのか?
それは、助けるため……。
毒を飲んだ者にどのような解毒剤を与えれば良いか知っておくため。あるいは、死んだように見せかけるための毒を……知っておくため。
「なぜ、毒が好きなのか、教えよう。君の知らない毒を使い、死んだように見せかけることができるからだ。ほかの殺し方と違って、毒は、君たちを騙すのにとても都合が良かったのさ」
詐欺師は……会心の笑みを浮かべた。
もちろん、彼の努力は無駄なことで終わる可能性もあった。
バルバラの言う通り、イエロームーン派だけでは戦えなかった。
狡猾な蛇のこと、皇帝になにか囁いて軍を動かすこともできただろうし、秘密裏にローレンツたちを暗殺することだってできただろう。
だから、このカードは切ることができず、手の中で無駄に溶けていく可能性だって十分にあったのだ。けれど……、無駄にはならなかった。
――ミーア姫殿下がいる……。
先ほど、ローレンツは、じっとミーアのことを観察していた。
彼女が、噂通り信頼に足る人物なのか……。
そんな彼の目の前で、彼女は、怒っていた。
シュトリナを虐げるバルバラを、明確な怒りのこもった瞳で、じっと睨んでいたのだ。
積極的にしろ、消極的にしろ、自身の暗殺に関わった人間が、虐げられていたからと言って、怒る人間がどれほどいるだろうか?
いい気味だ、と笑うのが人というものではないか?
にもかかわらず、彼女は、しっかりと、シュトリナのために怒ってくれた。
――ミーア姫殿下は、シュトリナのことを信じると言ってくれたと聞いた。あるいは、あれで、すでに十分だったのかもしれない。ミーア姫殿下に全幅の信頼を置くには……。
そう判断したローレンツは、ようやく、自らの切り札をすべて明かすことにしたのだ。
それから、ローレンツはミーアの方に目を向けた。
「ミーア姫殿下……以上が私があなたにお伝えしたかったことです。どうか、ご裁定をお願いしたい」
事態の急変を前に、ミーアは……、
「…………はぇ?」
ぽかーんと口を開けるのみだった。