第八十六話 シュトリナの帰郷
時間は、少しだけ遡る。
シュトリナを連れたバルバラが、イエロームーン公爵邸へと辿り着いたのは夜も遅い時間だった。
中庭で思索にふけっていたローレンツは、突如の娘の帰還に、慌てて迎えに出た。
「一体、何があったんだい? これは……」
館に入ってきたのはシュトリナとバルバラ、それに三人の男たちだった。
完全武装の男たちは、みな、特徴的な仮面で顔を覆っていた。目の部分に特徴的な蛇の模様の描かれた男たちに、彼は覚えがあった。
秩序の破壊者……混沌の蛇に心酔する者たち。そのためならば、命を懸けることさえ、いとわない者たち。
狼使いとは、また少し違った、暗く退廃的な空気をまとった男たちに、ローレンツは顔をしかめる。そんな者たちに囲まれる娘の姿を見て……、その表情は厳しさを増した。
悄然と立ち尽くすシュトリナ。その格好は、くたびれた制服姿だった。
強行軍だったからだろう、その体はわずかに薄汚れていたが……、大きな怪我はなさそうだった。にもかかわらず、ローレンツの目には、シュトリナが今にも擦り切れてしまいそうなほどに、ボロボロに見えた。
うつむき、顔を上げようともしない、その疲れ果てた姿を見て、思わず駆け寄ろうとするローレンツだったが……、直後に鼻先に剣を突き付けられて、立ちすくむ。
「なっ、なにを……」
「この娘は、愚かにも、我ら蛇を裏切ったのですよ、お館さま」
そうして、バルバラはシュトリナの背中を押した。抵抗することなく、まるで糸の切れた操り人形のように、シュトリナはその場にへたり込む。
「ほら、お嬢さま、お館さまに謝罪なさったらいかがですか? お嬢さまの愚劣な行いのせいで、お館さまも大変に迷惑されていますよ? どう責任を取るというのですか?」
その言葉に、シュトリナはピクリと肩を震わせた。それから、ローレンツの方を見上げる。
「申し訳ありません。リーナは……、くだらない友だちへの気持ちを優先してしまい、皇女ミーアを逃がすことに協力してしまいました」
ポロポロと、灰色の瞳から、涙が零れ落ちた。
「や、役立たずの娘で……申し訳ありません」
「リーナ……、立ちなさい。いったいなにが……」
っと、シュトリナの肩にぽんっと手を置いて、バルバラが言った。
「お嬢さまの気の迷いから、皇女ミーアの暗殺に失敗したのです」
「なっ、ミーア姫殿下の、暗殺っ!?」
驚愕に目をむくローレンツに、バルバラはため息を吐いた。
「愚かなことをしたものです。皇女ミーアに弓引く以上、決して目撃者を生かしておいてはならないというのに……、そんなこともわからずに、つまらない友情に気を取られて……。ああ、なんと愚か。蛇に従い、イエロームーン家の者として、ひと時の繁栄を享受すればよかったものを……」
いたぶるように、シュトリナの髪をいじるバルバラに、ローレンツが焦り気味に言った。
「そ、そうか。しかし、失敗したものは、仕方あるまい。では、急ぎ脱出の準備を……」
「はて……? 脱出、でございますか?」
小さく首を傾げるバルバラに、ローレンツが声を荒げる。
「当然だ。まさか、帝国を相手に戦端を開くなどとは言わないだろう?」
その言葉に、バルバラは小さく首を振る。
「当たり前でございます。簡単に制圧されて終わりでしょう。勝負にもならないのでは?」
精強な私兵団を誇るレッドムーン公爵家ですら、単独で帝国軍と戦うことはできないだろう。まして、イエロームーン派は烏合の衆。消極的に徒党を組んでいる者も少なくはないのだ。
勝ち目のない戦に身を投じるとは、とても思えなかった。
「だったら……」
「しかし、逃げてどうします? お館さま。あなたや、この、どうしようもないお嬢さま……」
そう言って、バルバラはシュトリナの髪を掴んだ。乱暴に髪を引っ張られ、シュトリナが痛みにうめき声を上げる。
「……あっ、ぅ」
ぎゅっと目を閉じるシュトリナに、バルバラが顔を寄せた。
「そもそも、逃げたところで、なんの役に立つとおっしゃるのです? 暗殺の技を仕込んで、もう一度、皇女ミーアの命を狙うとでもいうのですか?」
乱暴にシュトリナを放して、それからバルバラは肩をすくめた。
「残念ながら、この小娘は蛇にはなれないでしょう。友情などとくだらない感情に心を奪われた半端者にはね」
「それならば、まっ、まさか、この館で迎え撃つつもりか?」
「さて……、はたして我らが刃は届くでしょうか? 最強の駒である狼使いを退けた皇女ミーアに? 少なくとも、この者たちには無理でしょう」
バルバラは、自らが連れてきた者たちを見て首を振る。
「お館さまはお心当たりがありますか? あの忌々しいディオン・アライアを退ける者に……」
「それは……」
「ねぇ? 望み薄でしょう?」
バルバラは、嫣然と微笑む。
「小さな虫は、獅子の腹の中にいてこそ、獅子を苦しめることができる。正面から立ち向かっても踏みつぶされて殺されるだけでしょう?」
ローレンツの方に顔を向けて、バルバラは続ける。
「あなたたちは、毒虫ではないですか。最古の忠臣イエロームーン。ならば、踏み潰されるなどと、無駄な死に方をすべきではありません。毒虫は毒虫らしく、せいぜい、派手に食い殺されましょう。そして、その毒をもち、あの叡智に汚点をつけてやれば良いのです。それでこそ、蛇の役に立てようというものですよ」
それから、バルバラは、優しい笑みを浮かべた。
「さぁ……では、準備をいたしましょう。お館さまも、お嬢さまも。かの帝国の叡智をお迎えするのです。きちんとした格好でお出迎えしなければ失礼にあたりますよ。せいぜい平和な、綺麗な格好でお迎えして、悩みを深くして差し上げましょう……あら?」
ふと、そこで、バルバラは首を傾げる。
「ところで、お館さま、ビセットはどこに行ったのでしょうか?」
「あ、ああ、ビセットには用事に出てもらっていて……」
「おやおや、ふふふ。ついに執事にも見捨てられてしまいましたか。お可哀想なお館さま。でも、ご安心ください。このバルバラは、そして蛇は、最期まで、あなたのおそばにおりますよ」