第八十五話 ツッコミ無き世界
聖夜祭が終われば、セントノエル学園は冬休みに入る。
例年、ミーアは聖夜祭が終わって十日後に帝都へ帰還。その後、自身の生誕祭に出席するのが常となっていた。
けれど、今年は……、いつもより少しだけ早い帰還を果たすことになった。
やらなければならないことが……あったからだ。
セントノエルを出たミーア一行が向かったのは、帝都ルナティアではなく、ルドルフォン辺土伯領だった。
ヴェールガ公国の南部を通って帝国へと入るそのルートは、かつて帝国革命が起きた時に、サンクランドからの軍隊が侵攻したのと同じルートだった。そこから、隠密裏にイエロームーン公爵領を目指すのだ。
――自分が追い詰められた進軍ルートを逆に使ってやるというのは、痛快ですわね。
なにしろ、前の時間軸、ミーアたちをはめた混沌の蛇を、同じ進撃ルートを使って追い詰めてやろうというのだ。ミーアにとっては何とも気持ちのいい行軍だった。
もっとも、ミーアは軍事的なことはまるっきりわかっていないのだが……。
静海の森を迂回して一気に北上。さしたる問題もなく、馬車はイエロームーン公爵領の領都近くの村に到着した。
そこで、ルードヴィッヒ、並びに皇女専属近衛部隊と合流することになっているのだ。
村の入り口には、整列した皇女専属近衛隊と、ルードヴィッヒの姿があった。
「ミーアさま、ご無事のご帰還、心よりお喜びいたします」
馬車から降りると、ルードヴィッヒが片膝をついて出迎えてくれた。そのまま顔を上げようとしないルードヴィッヒに、ミーアは首を傾げる。
「ええ、今帰りましたけれど……、えーと、どうかなさいましたの?」
そう尋ねても、ルードヴィッヒはじっと下を向いたままだった。やがて、その口から重々しい言葉がこぼれる。
「この度の失態、申し開きもできません」
「はて……? 失態?」
「あの暗殺者がヴェールガを通るのを予測できておりながら、みすみすミーアさまを危険に晒すようなことに……」
肩を落とし、どこか消沈した様子のルードヴィッヒ……。それを見て、ミーアは瞳をまん丸くした。
――まぁ! なんと! あのルードヴィッヒが……、へこんでおりますわ! 珍しいこともあるものですわ。
思わず、マジマジと観察してしまう。
なにしろ前の時間軸で、さんざんお小言を聞かされてきたルードヴィッヒなのだ。しょんぼりしているのが、なんだか、新鮮に感じられてしまうミーアである。
――とはいえ、いつまでもこのままでいてもらっては困りますわ。これから先の大飢饉に、ルードヴィッヒの力はなくてはならないものなのですから……。
ミーアは、うむ、と一つ頷くと、ルードヴィッヒに優しく声をかけた。
「顔を上げてくださらないかしら、ルードヴィッヒ。別にあなたの責任ではございませんわ。不測の事態はいつだって起こるものですわ。こうして、わたくしは怪我一つせずに帰ってこられたのですから、問題ございませんわ」
「ですが……」
ミーアは、なお立ち上がろうとしないルードヴィッヒの腕を引いて、優しく顔を上げさせる。
「残念ですけれど、四の五の言っている時間はございませんわ。早くリーナさんを救い出さなければ。馬車に乗って状況を教えてくださらないかしら?」
ルードヴィッヒはミーアの顔を見つめてから、小さく息を吐いた。
「挽回の機会を、こうして与えていただいたこと、感謝いたします」
再び頭を下げるルードヴィッヒに、ミーアは首を振った。
「挽回など無用なこと。さあ、急ぎますわよ」
馬車に乗り込んできたルードヴィッヒは、改めて乗っている者たちの顔を見た。
シオン王子とその従者のキースウッド、それにアベル王子とは面識がある。
それにもう一人……。
「お初にお目にかかります、ルードヴィッヒ・ヒューイット殿。お噂はミーア姫殿下より聞かせていただいています」
穏やかな笑みを浮かべるメイド……、モニカ・ブエンティアだった。
「はじめまして、モニカ嬢。此度のことでは、お世話になりました」
ルードヴィッヒも小さく笑みを浮かべて答える。
ひと通り馬車の中の者たちに挨拶をしてから、ルードヴィッヒは改めて表情を引き締める。
「さて、早速ですが、公爵令嬢シュトリナと、その従者のバルバラですが、すでに公爵邸に帰っています」
その言葉を聞いて、みなの顔に緊張が走った。
「ルードヴィッヒ殿、それは、未だに邸内にとどまっているということだろうか?」
アベルの問いかけに、無言で頷き、ルードヴィッヒは続ける。
「昨日、イエロームーン邸に到着したとの報告が入っています」
「罠を張って、我々を待っているということか……」
難しい顔をして、アベルが腕組みをした。
「てっきり、やぶれかぶれで挙兵でもするのかと思っていたが……」
バルバラがシュトリナを連れてイエロームーン公爵領に戻ってきた時点で、彼らにとれる選択肢は限られている。四大公爵家の一角、イエロームーン公爵の名を用いて大規模に挙兵して、帝国を内戦に追い込むこと、あるいは、一族郎党、どこか外国に落ちのび、姿をくらませること……。
「俺はむしろ、どこぞに姿を消すものだと思っていた。いかに四大公爵家と言えど、現状で帝国に反旗を翻したところで、何ができるとも思えないからな。大義名分もないのであれば、兵たちだとて納得はしないだろう。無益に兵をすり潰すよりは、身を隠し、再び謀略を練るほうが有意義ではないかと思っていたんだが……」
そこまで言って、シオンは黙り込んだ。
蛇は正体不明だからこそ、恐ろしい。どこに潜んでいるかわからないから恐ろしいわけだし、まとまっていないから、一人、二人を処理しても意味がないのも厄介なところだ。
けれど……、正体が割れてしまえば、その個人に関してはそれほどの脅威ではない。
それは、言うなれば害虫の大群のようなものだった。集団全部を駆逐することは難しいが、一匹一匹はそこまでの脅威ではないのだ。
「にもかかわらず、屋敷に引きこもって出てこないというところを見ると、いよいよ罠の可能性が高いが……」
実のところ、難しいのはミーアも同じことだった。
本来であれば、自身の命が狙われたことを父に伝え、帝国軍を動かしてもらえば、それですべて済むことではあるのだ。いかに罠を張っていようと、一軍をもって屋敷ごと攻撃を受ければひとたまりもない。
けれど、その場合、主導者のイエロームーン公爵家の一族は処刑され、バルバラもまた処刑を免れないだろう。それでは困るのだ。
――それでは、リーナさんを助けられない。
後ろの馬車に乗っているベルのことを思う。
ベルのためにも、シュトリナには、ぜひ無事でいてほしかった。
――それに、仮に軍を動かすとすれば、その動きに呼応して、イエロームーン公爵も挙兵するかもしれない。
そうなれば、もちろん勝利は変わらないだろうが、ミーア的には好ましくない未来が待っている。
公爵が死んで領地に混乱が起こったり、領民が死に、国土が戦火で焼かれれば、その分、後の戦いが厳しくなる。
後の戦い……すなわち、大飢饉との戦いである。
結局のところ、ミーアにとって、今回のことは前哨戦に過ぎないのだ。
大飢饉との戦いに、できるだけ有利な状況を整える、そのための一歩なのだ。
であるならば、少なくとも軍を大々的に動かすわけにはいかない。小規模な局地戦で済ませる必要があるのだ。
せいぜい、ミーアが自由に動かせるのは皇女専属近衛隊とディオンぐらいのもので……。
――まぁでも、ディオンさんがいれば、一軍を動かすも同じことですしね。あの方は、なんというか、ちょっとアレですし……。
などとミーアが遠い目をしていると……。
「ご安心ください。障害はすべてこちらで取り除きますので」
ルードヴィッヒが、静かな、けれど断固たる口調で言った。
「すでに、皇女専属近衛隊が、国内の蛇の構成員の捕縛のために動いています」
それを聞き、周囲の者たちは、みな一様に息を呑んだ。人々の間に隠れ潜む蛇をあぶりだすことがどれほど大変なことなのか……、わからぬ者は一人を除いていなかったためだ。
一体どうやったのか? 気にならぬ者もまたいなかった……一人を除いて。
そんな、全員の興味の視線を受けて、ミーア……、
「なるほど。それは心強いですわ」
まさかのスルー! 詳しく聞かず、ただ、労いの言葉のみをかける。
けれど、それに、口をさしはさむ者はいなかった。
詳しい手法を聞かれなかったことを、ルードヴィッヒは自身への信頼ととらえた。
ミーアが、ルードヴィッヒならできる! と信頼して、こうせよと命じ、ルードヴィッヒはその信頼に応えるために、ただそれを為したというだけのこと。
ゆえに、あえて、ルードヴィッヒは細かく説明をすることはない。
あるいは、聞いていた者の中には、すでにミーアはすべてを把握しているのだと考えた者もいた。ルードヴィッヒには、すでにミーアからの綿密な指示が届いていた。だから、ミーアはあえて聞く必要がなかったのだ、と。
けれど、実際のところミーアは……、
――なぁんだ、案外、蛇を見つけるのは簡単みたいですわね。そう言えば、中央正教会の聖典を読み聞かせると姿を現すとか言ってましたし、ふふ、実はチョロイのかもしれませんわ。今度、わたくしもやってみようかしら?
などと、なんともナメ腐ったことを考えていたりしたのだが……。
それにツッコミを入れる者は、この場には一人もいなかった。
本日、コミックス発売です。