第三十四話 素顔のままで
新入生歓迎舞踏会の一時間前、ミーアは一人、大浴場にいた。
姫君の余裕……、というわけではない。なぜなら、ミーアは半泣きだった。
「うう、最悪……、最悪ですわ!」
そもそも、王族や貴族の娘たちに人気なのは、幾重にも重ね着した豪勢なドレスだ。化粧を含めて、その準備には優に数時間はかかるだろう。
にもかかわらず……、ミーアは浴場にいるのだ。しかも、本来そばにいるはずのアンヌの姿もなく、ただ一人で、である。
ごしごし、焦った様子で髪を洗うミーア。その髪にはねっちょり、何やら粘液めいたものがついていて……。
彼女がこんなことになっているのは、ちょっとした事情があった。
その日、ミーアは朝早く起きた。
朝、昼と食事を済ませ、それからたっぷり余裕を持って、ドレスに着替えた。
娘を溺愛する皇帝から送られてきた最高級のドレスは身につけるのに時間がかかるものの、他国では決して手に入らない極めて豪勢なものだった。
そんなド派手なドレスを着こみ、お化粧も完璧。すべての準備が終わったのは、パーティーが始まる二時間前だった。
その、微妙な時間の余裕が命取りとなった。
「まだ時間があるから、少し校内を見て回ろうかしら……」
そう思い立ったミーアは、その途中、珍しい物に出会った。
馬術部が、馬の散歩をしていたのだ。
――こんな近くで見るのは初めてですわね。
などと思いながら、ぽけーっと眺めていたミーア。そこに、馬が鼻を寄せてきた。
ミーアは動物が嫌いではない。親しげに鼻を寄せてくる馬に気をよくしたミーアは、撫でて差し上げようかしら、などと手を伸ばしかけ……。
ぶぇええくしょんっ! というド派手な馬のくしゃみに巻き込まれた。
「ひぁあああああっ!」
突風が吹いた後、そこにいたのは、馬のいろいろな粘液でびしょびしょになったミーアの姿だった。
「うう、どうして……、どうしてこんなことに……」
べそべそ、泣きべそをかきながら、鼻をすするミーア。
それは、不運としか言いようがない出来事だった。
実のところ、ミーアがお気に入りの香水を張りきって振りかけていたから、いささか匂いがきつかったという事情もあるにはあるのだが、それでも、同情を禁じ得ない状況ではあった。
とぼとぼと、悄然とした様子で戻ってきたミーアを見て、アンヌは思わず気が遠くなりかけた。
半泣きのミーアをなだめつつ、お風呂で身をきよめてくるように指示するものの、アンヌとしてもどうにもできない。
そうは思ったのだが……、
「……仕方ありませんわ、アンヌ、適当に恥ずかしくない程度にお化粧を……、ドレスは、その辺ので適当に見繕って」
しょんぼり、そんなことを言われてしまったものだから、メイド魂に火が付いた。
――姫さまに恥をかかせるわけにはいかないわ!
アンヌは燃えた。燃え上がった!
――ミーア様は、もとがいいんだから、そんなにお化粧しなくっても可愛い!
そう考えたアンヌは、ちょっぴりきつい印象の目元を和らげるようアイラインを描くだけにとどめ、あとはドレスの着付けに全力を割いた。
今からでは、正式な物は無理。略式であるならば派手なものは避けるべきということで、アンヌは白一色のドレスを選んだ。
肩が出ていて、スカートもやや短めのダンスを踊るのにちょうどいいものを選んだ。
さらに仕上げに、ミーアが自分で使ったのとは違い、ほのかに香る程度に香水を振りかけたところで時間切れとなった。
パーティー会場に集まっていた男子は、現れたミーアの姿に思わず目を奪われた。
豪奢なドレスを身につけた少女たちが溢れる中にあって、質素なドレスを身につけたミーアは、誰よりも健康的に輝いて見えた。
理由はとても簡単だ。
会場の少女たちは、ほとんどがコルセットの締め付けによって青白い顔をしていたのだ。白く美しい、というよりは、単純に顔色が悪い。
対して、ミーアはコルセットを付けていない。しかも、お風呂上がりで血色が良い。
ほんのり赤くなった頬は愛らしく、お風呂上がりのつやつやお肌は輝いて見えた。
さらに本当ならば分厚いドレスの内に隠されるはずだったミーアのすべすべお肌は、略式ドレスのおかげで惜しげもなく晒されているのだ。
豪華さに欠けるドレスのはずなのに、かえって、アンヌが手塩にかけたミーアのすべすべお肌の魅力を十全に引き立たせる効果を発揮していた。
そんなすべての状況が、絶対評価「かろうじて美少女」なミーアを、相対評価「普通に美少女」にまで引き上げた。
絶世の美少女ではない。
傾城とも傾国と言うにも足りない。
されど、その美しさは間違いなく会場にいた男子たちの気を引くには十分だった。
そんな美少女のミーアが、切なげなため息などついたりするものだから、なおのこと注目を集めてしまっている。
――ああ、やはり、こんな軽装でパーティーに来たら、目立ってしまいますわね。
そんな彼女の心中も、彼女が「馬のくしゃみ」に巻き込まれるなどと言うトホホな理由で略式ドレスを着るはめになったことも知ることなく、会場の男子の何人かが、心を射抜かれてしまったのだった。