第八十一話 ミーア姫、至福()のお風呂タイム
「ふー……」
セントノエル学園に戻ったミーアが最初にしたことは……もちろん、お風呂に入ることだった!
念のために言っておくと、別に、シュトリナのことを忘れたわけではない。追跡隊の依頼は、男子チームが担当している。ドロドロの格好を見た三人の紳士たちが、風呂にでも入って、ゆっくり休めと勧めてくれたのである。
まぁ、そもそもの話、部隊を編成したり、その指揮をとったりなどということは、ミーアにはできないわけで……、いても邪魔にしかならないわけで……。
そんなこんなでミーアとしては願ったり叶ったりだったので、後のことは彼らに任せて、さっさとお風呂に向かったのだ。
ちなみにベルも誘ったのだが、シュトリナのことが心配だからと、男子チームについて行ってしまった。今頃は、ラフィーナに相談に行っているころだろう。
ということで……、ミーアは一人でお風呂にやってきた。
浴場に入った途端、もわっと湯気が体を包み込む。
「ああ……、これは落ち着きますわ……あら?」
と、そこでミーアは気づく。
お風呂から漂う芳しき香り……、それは、
「姫君の紅頬の香り……ですわね。とてもいい香りですけれど……、はて? どなたか、入浴薬を入れたのかしら?」
この時……、ミーアの頭は完全に油断していた。絶体絶命の危機を乗り切ったという気のゆるみが、ミーアの危機察知能力を完全に鈍らせていたのだ。
そう、ミーアは気づかなければいけなかったのだ。
姫君の紅頬、この花が植えられた花園のこと……。セントノエルの秘密の花園と、その主のことを……、今、その人に二人きりで会ってしまった場合、どんなことになるのかを……、ミーアは考えるべきだったのだ……。
けれど……、この時のミーアが思い出したのは別のことだった。
「入浴剤……、そういえば、以前、リーナさんが、持ってきてくれましたっけ……」
乗馬練習で疲れていた自分を気遣い、特製の入浴剤を用意してくれた、優しい少女のことをミーアは思う。
先ほどは、煙の出る入浴剤を使って絶体絶命の場面を助けてくれた。彼女には、恩義があるのだ。
「あれは……、バルバラさんが主犯、リーナさんが脅されて、でも、直前で裏切って助けてくれた……そういうことなのですわね」
ミーアはそう推理する。きっと、バルバラの行いを察知したシュトリナが、クロエから煙の出る入浴剤をもらっておいて、何かあった時のために準備していたのだ。
「彼女には恩義がありますわ。必ず、返さなければいけませんわ……。ベルのためにも助けなければなりませんわね」
孫娘の友だちは、なんとしても助けてあげたいところだった。
「頑張らねばなりませんわ……」
などとつぶやきつつ、ミーアは体を洗い始めた。
いつもであれば洗うのを手伝ってくれるアンヌが近くに控えているのだが、今は、部屋に着替えを取りに戻っているため、ミーアは一人きりだ。
しゃこしゃこ、と、泡立てた洗肌剤を体に塗りたくっている時、ふいに、ミーアは気づく。
「……あら、妙ですわね……。二の腕が、少しフニフニしているような……」
先ほど、荒嵐が、敵の乗る馬にあっさりと追い付かれたことが脳裏を過ぎる。と同時に、ここしばらくの刹那的食生活が、頭の中を通り過ぎていき……、
「……気のせいですわね、うん。わたくしがフニョッてるなんて、そんなこと、ありえませんわ。ありえないことですわ。とてもありえないことなのですわ!」
さして大切でもないことを三度もつぶやくミーアだったが……。
彼女は、気づくべきだったのだ……。
シュトリナとの思い出、荒嵐に乗っていた時のこと、刹那的食生活の記憶……その、次々と過去のことを思い出してしまうという現象がなんなのか……。
それは、あの、死ぬ直前に見てしまうというアレに、そっくりだということにミーアは気付かなければならなかったのだ。
すなわち……、ソレを見てしまうほど、自身に圧倒的な危機が迫っているということに……。
ふいに、がらがらがら……と浴場の扉が開く音がする。
ちょうどタイミングよく、髪につけた洗髪薬を洗い流し終えたミーアは、ほふーっとため息を吐きつつ、そちらに目を向けた。
てっきり、アンヌが来たのだと思ったのだ……。完全な油断である。
予想に反して、ミーアの目に映った人物はアンヌではなかった。そこに立っていた意外な人物……、それは!
「あら、ミーアさん、ご機嫌よう……」
ニッコリと、穏やかな笑みを浮かべる少女……、ラフィーナ・オルカ・ヴェールガだった!
「ああ、ラフィーナさま、ご機嫌よう」
しかしながら、その事実を目にしても、なお、ミーアは腑抜けていた。
――今まで儀式でお忙しかったんですのね。その後で、アベルたちが追跡隊の相談に行ったはずですし……、ヴェールガの公爵令嬢というのも大変ですわね……。
などと思いつつ、髪を洗い始めたラフィーナをしり目に、ミーアは浴槽へと向かった。
入浴剤の素晴らしい香りに胸をワクワクときめかせながら、一気にお湯に体を沈める。
「おふぅ……」
微妙に、おっさん臭い息を吐きつつ、ミーアは浴槽の中でぐぐぅっと体を伸ばした。
――ああ……、すごく、気持ちいいですわ。硬くなった身体が解れて、なんとも言えない快感ですわ……。うふふ、やはりお風呂は最高ですわね!
たいそうご満悦なミーアに、不意に声がかけられる。
「どうかしら? 特別な入浴剤なのだけど、気に入っていただけたかしら?」
「ええ、素晴らしいですわ。これは、ラフィーナさまが?」
「そうよ。ふふ、それね、疲れてる時にはすごく効くのよ。体から疲れを取り去ってくれるの……」
その声を聞いた時……、なぜだろう? ミーアの背筋に、急にゾクゾクという寒気が走った。
あっつーいお湯の中に浸かっているというのに……、なぜだろう。ぶるぶるっと震えてしまう。
――あら? 今のは……?
疑問に思う間もなく、ラフィーナの声が追いかけてくる。
「なんだか、今日は……ずいぶんお疲れみたいだから、特別に用意してもらったのよ……ミーアさん」
髪を洗い終えたのか、ラフィーナがゆっくりとミーアの方に顔を向けた。
「島の外で、いろいろと大変だったそうね……命がけの大冒険だったとか……」
そう言って……にっこぉりと笑みを浮かべるラフィーナに、ミーアは震え上がった。
――あ、あら? も、もしかして……、ラフィーナさま、怒ってるんじゃ?
ミーアはようやく気付く。自身の絶対的に危機的状況……。
なんだか怒ってるラフィーナと、浴室で二人きりになってしまったという事実に!




