第八十話 バルバラ、ミーアの狙いを看破する!(……看破する?)
狼使いが戻ってきたのは、空が白み始めた頃だった。
「失敗した。逃げられた」
帰還して早々、端的にそう報告する狼使いに、バルバラは深々とため息を吐いた。
「ああ、やれやれ……。やはり、そうなりましたか……」
それから、バルバラは、所在なげに立っていたシュトリナに歩み寄ると、その幼い頬を張った。
「あっ……」
パンッと乾いた音、バランスを崩し、倒れそうになったシュトリナの腕を掴んで、バルバラは引き寄せる。
「忌々しい……半端者が……」
さらにもう一度、頬を打とうとして……。
「あまり、のんびりとはしていられない。追手がかけられている」
「……追手? それはかけられるでしょうが……。もしや、それは誰かが口に出しておりましたか?」
「いや……、時間稼ぎと言っていたのでな……」
「時間稼ぎ……。やつらがそう口に出していたというのならば、誘導の可能性が高い……。戦闘にしか能のない者の、愚かな判断ですね」
吐き捨てるように言って、バルバラはシュトリナの肩を押した。
その勢いでシュトリナは、こてんっとその場に尻もちをついてしまう。その、叩かれた方の頬は、痛々しく、赤い色に染まっていた。
「まったく、愚劣なことをしたものですね、シュトリナお嬢さま」
嘲るように見下ろすバルバラに、けれど、シュトリナは答えなかった。
「そう……。良かった……、ベルちゃん、無事に逃げられたんだ……」
ただ、小さな声でつぶやくのみだった。
「ああ、本当に愚劣……。お嬢さま、まんまと帝国の叡智の言に乗せられましたね」
「ほう、どういうことだ?」
口を挟んだのは、狼使いだった。そんな彼に、バルバラは呆れた様子で答える。
「わかりませんか? 皇女ミーアは……、お嬢さまの良心にプレッシャーをかけたのですよ」
「良心にプレッシャー?」
「ええ、そう。先ほど、皇女は言ったでしょう? お嬢さまのことを信じると。けれど、この状況で、自分を罠にはめた者を誰が信じるものですか? あれは、皇女の戦略。あの者は、無条件の信頼を与えることで、お嬢さまが良心の呵責に耐えられないようにしたのです。心の弱さを見抜いたのですよ、この無能者の……」
「違うわ……、バルバラ。あの方は、リーナを信じてくれた……。純粋に、リーナのことを、んぅっ!」
バルバラは、シュトリナの頬をぐっと鷲掴みにして、顔を近づけた。
なされるがままのシュトリナをじっとりと睨み付け、バルバラはため息を吐いた。
「やれやれ……どこかで、見切りをつけるべきでした。せっかく、私が蛇として鍛えて差し上げたのに。本物の蛇であれば、あのようなものは無視して当然。けれど、このお嬢さまのような半端者だと、影響を受けてしまうのでしょうね……嘆かわしい。嘆かわしい。ああ……そうか」
と、そこで、バルバラは、なにか思いついたかのように笑みを浮かべた。
「もしかすると、先ほどの煙……、やり方を教えてくれたのは、ミーア姫殿下ではありませんか?」
「…………」
黙っているシュトリナを見て、バルバラは、やれやれと首を振った。
「ということは……、かの帝国の叡智は、自らを逃がしたという功績をもって此度のお嬢さまの罪を許し……、その恩をもってイエロームーン公爵家を自らの手中に収めようとしたのでしょう。お嬢さま同様、イエロームーン公爵も煮え切らない半端者。ミーア姫殿下の口車に簡単に乗せられてしまうでしょうね」
バルバラの言葉に、狼使いは目を細める。
「それで、その娘をどうするつもりだ? 殺してオオカミに食わせるか? 見せしめに死体を晒しても良いが……。どちらにしろ、裏切り者には死を与えねばなるまい」
剣に手をかける狼使いだったが、バルバラはゆっくりと首を振った。
「戦にしか能のないあなたではわからないでしょうけれど……、それは、あまり良い手ではありませんね」
「なぜだ? 見せしめに殺すのがよかろう。かの者たちに、衝撃を与えることができるだろうに……」
「あなた、先ほどのミーア姫の言葉を聞いておりましたか? 自分が死んでも、終わらない、そのようなことを言っていたのを……」
狼使いは、小さく首を傾げて、
「確かに言っていたが……あれは、ただの負け惜しみではないか?」
その問いかけに、バルバラは首を振る。
「まったく愚かな判断です。そんなわけがないでしょう? ティアムーン帝国の革命の芽を摘み、レムノ王国の革命をも阻止した、かの帝国の叡智がそのようなことをするはずがありません」
自信満々に断言するバルバラ。
「では、どういう意味があったと?」
「賢き者は、死の使い方を知っているもの。そして、王の中には、時に、自らの死すらも、計略の内に含めてしまう者がいるのです。恐らく、かの帝国の叡智は、自分が死を免れないと知って、それをも利用してなにかを為そうとしていたのでしょう。最も簡単に考えられるのは、自分を旗印として仲間の結束を強める、あるいは、反混沌の蛇への攻勢を強めることでしょうが……。いずれにせよ、皇女ミーアは、自分が死んでも、自分の意志は死なないと確信していたのです」
得意げに語ってから、バルバラはシュトリナの、か細い首に手をかけた。
「んっ、ぅ……」
その爪が幼い肌に食い込み、シュトリナはわずかばかり、顔を歪ませた。
「そして、自身の死さえ利用しようという者が、他者の死を使わないはずがない。このお嬢さまの死だとて、きっと有効に使うことでしょう……わかりませんか? 我々の手で殺してしまえば、その復讐心を利用されるのです」
バルバラは、シュトリナに顔を寄せて、まっすぐにその瞳を見つめた。
「イエロームーン公爵は、この娘を大層可愛がっておりますから、殺せば復讐心は相当のものになりましょう。帝国の叡智がそれを見逃すとも思いません。イエロームーン派を掌握するのに、これほど良い材料はございませんでしょう?」
「では、どうすると? このまま連れていき、暗殺者として育てるとでも言うつもりか?」
怪訝そうな顔をする狼使いに、バルバラは呆れたようにため息を吐いた。
「無理でしょう。友人を殺すことすらできない者に暗殺者などとてもとても……。此度のように、肝心な時に仕損じるに決まっておりますよ」
そのまま、無造作にシュトリナを放してから、バルバラは言った。
「それでも、使いようによっては、まだ使えます。この娘を使い、ミーア・ルーナ・ティアムーンとその仲間たちとの絆に、傷を穿つこともできましょう」
ニヤリと笑みを浮かべて、バルバラはシュトリナを見た。
「裏切り者には死を。それは当然のこととして、せいぜいその死を上手く使わなければなりません。まぁ、とりあえずは、追手がかかる前に逃れましょう。準備には時間をかけねばなりませんしね……」
けれど……、そのバルバラの思惑は早々に打ち砕かれることになる。
彼らの予想より遥かに早く、そして、極めて適切に手配されていた追手のために。
ヴェールガから北へ。サンクランド王国の辺境の地に逃れようとしていた彼らの前に、サンクランド王国の騎馬隊が立ちふさがった。
まるで彼らの逃走先を予想していたかのように配置されていた兵士に、彼らは追い詰められた。
実はそれは、セントノエルに戻ったミーアたちの手配によるものではなかった。
ミーアの右腕アンヌ……ではない方の腕……、すなわちミーアの左腕、ルードヴィッヒの手配によるものだった。
安全地帯への脱出を妨害されたバルバラは、楽しげに笑みを浮かべる。
「これで、我々を追い詰めたつもりですか……、ミーア・ルーナ・ティアムーン」
サンクランドの追手は優秀で、狼使い一人ならばともかく、足手まといの自分とシュトリナを連れていくことは不可能。そう判断したバルバラは、一つの決断をする。
「こうなった以上、仕方がない……か。かくなる上は……我が命を持ちて、蛇に仇なす者たちの絆に亀裂を生じさせて見せましょう」
こうして、狼使いと別れたバルバラとシュトリナが向かった先……。
それは、地の利があり、唯一脱出が可能であった場所。
イエロームーン公爵領だった。
バルバラは知らない。
その脱出が可能であった場所……その方向の包囲網が、あえて薄くしてあったということを……。
そして、ミーアは知らない。
自らの右腕だけでなく、左腕の方も、裏で非常に勤勉に仕事をしていたということを。




