第七十七話 決戦の荒野にて
「ああ、アベル! アベルが来てくれましたわっ!」
きゃーきゃー響く、ミーアの能天気な歓声をよそに……、アベルは男から目を離せなかった。
肌が粟立つ……。
緊張感に、手のひらにじっとりと汗が滲んできた。
目の前の男の隙のない構えと、全身から発せられる濃密な殺気……。それは、かのレムノ王国の豪傑、剛鉄槍レオナルド・バージルや帝国最強の騎士、ディオン・アライアにも匹敵するもののように、アベルには感じられた。
――この男、恐ろしいほどの実力者だ……。それに……、
男から注意を逸らさないようにしつつも、アベルは辺りを窺う。と、徐々に、距離を詰めてきているオオカミたちの姿が見えた。
――オオカミが厄介だな……。なんとかしなければ……、んっ?
っと、不意にミーアの後ろに、のっそりと荒嵐が歩み寄るのが見えた。ふんっと荒い鼻息を漏らしつつ、オオカミたちを睨みつける。
さらに、その隣にはアベルが乗ってきた花陽までもが、まるでミーアを守るように、身を寄せて来ていた。
――頼もしいけれど、さすがにオオカミと馬では……。
と思ったアベルだったが、不思議なことにオオカミたちは、馬を見ると、そこで足を止めてしまった。
「これは…………、ああ、なるほど」
その様子を見て、アベルは納得する。
馬というのは、財産だ。
戦場を駆ける駿馬は、一頭で千金の価値を持つ。恐らく、敵のオオカミたちは、馬を襲わないようにしつけられているのだろう。
「ということは……、とりあえず、オオカミを気にする必要はない、ということか。ミーア、荒嵐たちから離れるな」
「ええ、わかりましたわ! ……あ、あら? 荒嵐、なんだか、鼻がひくひくしてるような……、うひゃあっ!」
ぶぇえくしょんっと、荒嵐のくしゃみの音と、その直後、どさり、とミーアが転ぶ音が聞こえたが……、それに構っている余裕はアベルにはない。
改めて、彼は目の前の男に視線を戻した。
「よくしつけられているオオカミで助かったよ。あとは、お前を倒せばいいだけだ」
「アベル……、レムノ王国の、第二王子……か」
覆面の男は、意味ありげにつぶやいて、アベルを見た。
「おや、ボクを知っているのかい? それは、光栄の至りだ」
目の前の男を睨みつけたまま、アベルは剣を上段に構える。
実のところ……、状況は、あまり好転はしていない。目の前には、帝国最強ディオン・アライアと同格の暗殺者がいて、襲ってはこないとはいえ、オオカミもそばで狙っている。
捨て身で時間稼ぎをすればよいという状況でもない。
敵を退けて、活路を切り開かなければならない状況なのだ。
――ボクに……できるだろうか?
一瞬だけ、腹の底から浮かび上がりそうになる不安……、それを、
「ふぅ……」
深呼吸とともに飲み下す。そして、
「行くぞ!」
しなければ、ならぬことはシンプルだ。ならば、ただ、それを為すのみ。
アベルは、大きく踏み込む。
地面をへこまさんばかりの踏み込み。と同時に、刃を振り下ろす。
鍛練に鍛練を重ねた、彼のもっとも信頼を置く、上段からの振り下ろし。
かすむ刀身は、ただ月明かりの反射による残光を置き去りに必殺の斬撃となる。
それはまるで、月の雫が垂れたような美しき斬撃。
天才、シオン・ソール・サンクランドでさえ、反応できたかどうか疑わしい、見事な一撃……であったのだが……。
ガィン、と重たい音が響く。
刹那の後、月に照らし出されるは、鍔迫り合いをするアベルと男の姿だった。
――くっ、こうもやすやすと受け止められてしまうとは……。
渾身の一撃を止められて、悔しげに舌打ちするアベル。そんな彼に、覆面の男は冷たく言った。
「見事な一撃だが、我を討ち果たすには足りぬ」
直後、今度は男の斬撃が放たれた。
間一髪、アベルは剣の腹で受けるも、攻撃は終わらない。激しい嵐のような連撃に、アベルは防戦一方だった。
――くっ、やはり、強い。
攻撃を捌ききれずに、体に小さな傷が増えていく。月明かりに、鮮血の飛沫が飛び散った。
「くっ、まだまだっ!」
それでも、アベルが折れることはない。
自分が背にかばっているものがなんなのか、彼にはよくわかっていた。
こんなところで、彼女を失うわけにはいかない。
諦めるわけにはいかない!
胸に抱く信念は、固く、決して折れることはなく……、けれど……。
パキィイインっと、なにかが砕けるような不吉な音が聞こえた。
直後、アベルは、慌て気味に敵と距離をとる。そうして、自らの剣に目を向けて……、忌々しげに顔を歪めた。
「そのような剣で、我の相手をしようとは、愚かな……」
低く、嘲るような声で覆面の男が言った。
アベルが持っていた剣……、それは、訓練用の刃引きがされたものだった。強度的にも実戦に耐えうるものではなかったのだ。
セントノエル島において、武器の類には、極めて厳重な管理がなされている。取り出すための許可を得るには時間がかかるのだ。
だが、その時間はなかった。それでは間に合わなかったのだ。
リオラからミーアの異変を聞かされたアベルは、訓練用の剣を片手に、唯一、荒嵐に追いつける馬、花陽を連れて、救出に駆け付けたのだ。
拙速に拙速を極めたがゆえに、リオラもアベルも間に合い……、けれど、拙速であったがゆえに、狼使いを退けるには至らない。
未来を閉ざす固い扉は未だ開くことはなく……。それをこじ開けるにはもう一つの運命の糸を頼る必要があった。
もう一つの運命の糸――銀貨二枚分の忠誠は、この決戦の荒野に、セントノエル学園における最強の戦力を召喚するに至る。
それは……。
「アベルっ! 受け取れ!」
唐突に声が響いた。同時に、覆面の男から放たれた横薙ぎの斬撃。
アベルは真上に飛び上がることで、それを躱し、空中で思い切り手を伸ばした。
まるで吸い寄せられるように、その手に、一本の剣が収まる。
「恩に着るよ、シオン」
言いつつ、アベルは空中で抜刀する。
月明りを受けて黒く光るそれは、鍛え抜かれた鋼。
幾戦の敵を退けるために打ち出された戦刀だ。
両手持ちにした剣を、アベルは全力で振り下ろした。
ガィンッと鈍い金属の音。
強力無比な一撃を剣で受けた男は、小さく呻いて後ろに下がる。
「腕が痺れたんじゃないか? 彼の一撃は重たいからな」
ゆっくりと歩み寄ってきたのは、涼しい笑みを浮かべる少年だった。
シオン・ソール・サンクランド。剣の天才は、静かに、優雅に、剣を抜き放つ。
それから、ふと、荒嵐のそばにいるミーアの姿を見る。それは酷い姿だった。
ぐっしょりと濡れた服、頬や髪には、黒々と泥が付着していた。
「我が仲間に無礼を働いた報いを受ける覚悟は……、できているのだろうな」
その瞳に、静かな怒りを燃やして、シオンは言った。
……ちなみに、ミーアがボロボロなのは、もちろん馬から落ちたこともあるのだが……、それ以上に、荒嵐にくしゃみをぶっかけられて、転んで、泥だらけになってしまったことが大きかったわけだが……。
そんなことは知る由もないシオンなのであった。