第七十六話 か細き運命の糸を繋いで
――未熟。その程度で、我に当てようなどと……。
最初の一本以外の火矢は、ことごとく頭上を通り過ぎて行った。狙いとしては大雑把すぎるし、なにより、軌道が見えやすい火矢にしていることが致命的と言えた。これでは、仮に命中する軌道で放ってきたとしても簡単に叩き落とすことができる。
火攻めにするならばともかく、わざわざ矢の軌道が見えやすいように火を灯すなど、愚の骨頂。
――万が一にも皇女ミーアに当たらないよう、わざと見えやすくしているのか……?
それでも、普通の賊が相手であれば牽制にはなったかもしれないが、帝国最強の騎士、ディオン・アライアの矢を叩き落した狼使いであれば、無視してしまっても何の問題もない。
――いや、いくら防げるとしても、こうも撃たれてはさすがに面倒か。そもそも、もし、皇女に当たったりしたら、どうするつもりだ?
熟練の戦士である狼使いだからこそ、打ち落とすことも可能なのだ。前を行くミーアには到底そんなことはできないだろう。
――今から首を落とす相手に、無用の心配か……。
そんなことを思いつつ、狼使いは馬の速度を上げた。
見る間にミーアの姿が近づいてくる。剣を振りかぶり、その細い首筋に刃を振り下ろそうとした、まさにその時……!
「合わせてっ!」
前方、弓の射手が声を張り上げる。
それを聞いた狼使いの脳裏に疑問が過ぎった。
合わせる? なにを?
馬を操る前方の少女にかけた声だろうか? だが、だとしたら、なにをどう合わせるというのか? あるいは、ミーア姫たちにかけた言葉だろうか? だが、だとしても、なにをどう合わせるのか?
生じた違和感。直後、前方から、再び火矢が放たれる。
かすかな山なりを描く火矢の軌道。赤く光る矢は真っすぐに向かってくる。
距離が近づいたからか、狙いは正確だった。仕方なく、彼は剣でそれを落とそうとして……、その耳が異変を捉える。
矢が風を切る音。
その数は…………二つ!
刹那、狼使いは、体を大きく倒した。その肩口を、まったく違う角度から飛んできた矢がかすめていく。
――ぐっ……鋭い。もう一人、射手がいたか……。
狼使いはようやく、相手の狙いに気が付いた。
「ちっ、外した、です」
暗い草原に立つ小さな人影。
狙撃手、リオラ・ルールーは悔しげに舌打ちする。
「次は当てる、です」
そうして、二本目の矢を番える。
ティオーナの命令で、助っ人を呼びに行ったはずの彼女がここにいることには、ちょっとした事情があった。
端的に言ってしまうと、彼女は……ティオーナが心配だったのだ。
アンヌからただならぬ気配を察知したリオラは、主君の身を案じて、自身に課せられた命令を最低限だけ果たすと、すぐにティオーナたちの後を追ったのだ。
そうして、彼女が港に到着したのとほぼ同時に、一隻の船が現れる。
それこそが小遣い稼ぎのために再び戻ってきた、例の、ミーア誘拐に加担した商人だった。
「積み荷を積んでなければ、入島の審査も甘いし、ちょろっと学生を島の外に出してやるだけで金貨がもらえるなんて美味い商売だなぁ」
などと上機嫌だった彼なのだが……、すぐに自らの悪事の報いを刈り取る羽目になる。
アンヌたちに協力した町民たちの手によって捕まった商人が、袋叩きにされそうになっているところにタイミングよくリオラが到着し……。と、アンヌとティオーナよりスムーズに行動できたリオラは、野原の途中でついにアンヌたちに追いつくことができたのだ。
さらに、商人からある程度の事情を聞いたリオラは、不意の遭遇戦に備えて、簡易な火矢を作成。矢の先端を潰し、万が一ミーアに当たっても死なない程度のケガで済む矢を作っていた。
まぁ、当たったらめちゃくちゃ痛いだろうが、刺さらなければいいだろ! の精神である。
ワイルドさが売りなリオラである。
その上で、彼女はティオーナに役割を与えたのだ。
替えの松明と火矢を渡して……、それを使って敵の目を引き付けることと牽制、そしてそれ以上に敵の周囲を照らして、リオラの狙いをつけやすくする、という役割を。
ティオーナの腕は悪くはないが、百に一つもミーアに矢を放ってしまっては大変なことになる。ゆえに、敵に致命傷を与えるような攻撃は自分が担おうというわけである。
まぁ、実際のところ、リオラであっても万に一つぐらいはミーアを射抜いてしまう可能性は否定できないところであるが……、それでも、ティオーナよりは低いわけで……。
「ミーア姫殿下、当たっちゃったらごめん、です……」
……ミーアの命は、割と風前の灯なのかもしれない。
「ひぃいいいいっ!」
前方から次々と飛んでくる火矢を見て、ミーアは悲鳴を上げた。
「あぶっ、危ないですわ! 荒嵐、避けて! ひぃいっ! 当たってしまいますわ! ベル、しっかりと頭を下げているんですのよ!?」
実際には火矢はかなり離れたところを飛び去っているわけだが、ビュンビュン飛んでくる矢に、ミーアの小心者の心が悲鳴を上げ続けていた。
一方、ベルの方はずっとうつむいたままだった。
ミーアとは違い、以前にも似たような経験をしているベルは、この程度では動じないのだ。むしろ彼女の心配事は……、
「リーナちゃん……」
あの場に残してきた友人のことだった。
そればかりが気になってしまい、頭上を飛び交う矢も、追跡者も、
「ひぃいいいっ! し、死んじゃいますわ! これ、絶対死んじゃいますわっ!」
お祖母ちゃんの情けない悲鳴も、彼女の耳には届かないのだ。こうして、ベルの中の格好いいお祖母ちゃん像は守られるのだった。良かったね、ミーア。
さて、きゃあきゃあ悲鳴を上げていたミーアだったが、ようやく、この火矢が当たらなそうだぞ? と気付いて、冷静さを取り戻した。そうして、改めて後ろを振り向いて……、驚愕する。
追跡者の乗った馬が、予想していたより後方にいたからだ。
「あら? もしかして……、火矢にビビッて速度を落としたんですの?」
……リオラの狙撃の方にはまったく気づいていないミーアである。
「ふふん、火矢とこんなに離れていたら当たるはずありませんのに、情けないやつですわ!」
先ほどまでの自分の態度を忘れて、得意げに笑うミーア。都合の悪いことは、サクッと忘れられる便利な脳みそなのである。
――もしかして、これ、上手く逃げることができるんじゃないかしら?
などと、油断しかけた瞬間だった。
ドンっと真横から衝撃が走った。
「あっ……」
「ひゃああああああっ!」
悲鳴とともに、ミーアとベルは草原に投げ出された。
ごろんごろん、と地面を転がりながら、ミーアは見た。
荒嵐に真横から体当たりを食らわせた巨大な影……、それがのっそりと、ミーアたちに近づいてくるのを……。
――あっ、ああ、オオカミのこと、すっかり忘れておりましたわ……。
狼使いと同様、ミーアたちもまた、火矢に気を取られて速度が落ちていたのだ。そこに、追いついてきたオオカミが不意打ちを食らわせてきた、と……。
それは、ただそれだけのこと……。そして……。
「覚悟してもらおう……」
オオカミの後ろから、馬を降りた狼使いが歩いてくるのが見えた。
――あ、ああ……やっぱり、わたくし、ここまでなんですのね……。
彼が振り上げた刃をぼんやり見ながら……、ミーアは思う。
――ま、まぁ、犯人はわかりましたし。今度は上手くできると思いますわ。もっとも、今度があれば……ですけれど……。
男がやってくるまで、残り五歩、四歩……。
やがて、ゆっくりと立ち止まった狼使いは、その剣を振り下ろした。
ミーアはギュッと目をつむり、どうか、あんまり痛くありませんように……! などと心の中で祈りをささげた。のだが……。
痛みはおとずれることなく、代わりに聞こえてきたのは、甲高い金属の音のみで……。
「…………悪いが、彼女は大切な人なんだ。ボクにとっても、皆にとってもね……。だから……ミーアには指一本触れさせない」
リオラ・ルールーが果たした最低限……。
学園に戻った彼女が真っ先に見つけた助っ人こそが……。
「あっ、アベルっ!」
ミーアの感極まった声に、アベル・レムノはちょっぴり照れくさそうな顔をするのだった。