第七十五話 少女たちの想いの結実
――あれは、月兎馬……。騎馬王国からセントノエル学園に譲渡されたものか……。なかなか良い馬だ……が……。
前方を逃げる皇女ミーアとその馬を眺めながら、狼使いは冷静に考える。
先ほどの煙の影響だろうか、ぼんやりと明かりを放っているおかげで、ミーアの騎乗姿勢がよくわかった。
――皇女ミーアの乗り方も、悪くない。馬にすべてを委ねている……。
馬に乗り慣れていない少女を抱えての、皇女ミーアの騎乗もそれなりには、さまになっていた。高貴な身分の婦女子とは、とても思えないような乗りっぷりであるが……。
――だが、残念ながら……、我から逃れるには足りない。
狼使いは冷静に、自らの乗る愛馬に声をかける。
「……行くぞ。影雷」
その指示に応えるように、黒銀の毛並みを持つ馬、影雷は高くいなないた。
それを合図に、影雷の駆ける速度が上がる。従者である狼たちを置き去りにして、一気にミーアたちへと接近した狼使いは、片手で剣を抜き放った。
明々と輝く月光を反射して、刀身がギラリと輝きを放った!
「……その首、貰い受ける」
「ひぃいいいいいいっ!」
悲鳴を上げるミーアまでの距離、およそ三馬身。
それに気づいたのか、ミーアの乗る馬が速度を上げ、再び距離を開ける。と同時に、ザカッと土を蹴りつけてきた。けれど……、
――なかなかに賢い馬のようだな。
狼使いはそれを避けるために、いったん左後方に移動、ミーアたちと距離を取る。そこから回り込むようにして、ミーアたちの馬に近づこうとして……、直後、前方に目をやる。
――むっ……あれは……?
闇の中に見えた、ぼんやりとした赤い光。それが弧を描くようにして、近づいてきて……。
「――っ!」
咄嗟に剣を振るう。瞬間、刃に何かが当たる感触とともに、周囲に炎が爆ぜた。
「火矢……?」
直後、
「ミーアさまっ!」
響き渡るは、少女の声。
狼使いは、前方、火矢が飛んできた方向に目を凝らす。わずかとはいえ、自身が光を放っているため、微妙に見づらかったが……、それでも彼の目は、そこに馬に乗る二つの人影をとらえた。
どうやら、一人が馬を操り、もう一人が弓を放ってきているらしい。
――なるほど、皇女ミーアを救援に来た従者、か……。
セントノエル島で、ミーアの行方を追っていたアンヌとティオーナは、すぐに、ミーアが島を出る船に乗ったという情報を手に入れた。
幸い、町行く人々も、商人たちもミーアのことをしっかりと覚えていたのだ。
馬を引き連れたセントノエル学園の生徒は印象的だったし、なにより、アンヌがコネ作りに尽力していたためである。必死な様子のアンヌに、協力してくれる町人は少なくはなく……、ほどなくしてアンヌたちはミーアが島を出たことを知る。
すぐさま、二人は自分たちも島を出ることを決意。アンヌが懇意にしていた商人にお願いして、岸まで船を出してもらうことにした。
「……問題は、岸についた後どうするか、ですね」
ティオーナは湖の向こう側に広がる闇に向けて、厳しい視線を送った。
二人が得た情報は、ミーアが島を出るところまでである。
はたして、聞き込みによって、その後の情報を得ることができるだろうか?
「ちょっといいかい? アンヌちゃん」
深刻な顔で相談する二人に、商人が話しかけてきた。
「本当なら、港に船をつけるところなんだが、島からセントノエル学園の生徒を出したとあったら、騒ぎになりそうなんでな。できれば、人のいないところで降ろしたいんだが……」
その言葉は、二人の絶望に拍車をかける。
自分たち同様、ミーアを連れ出した商人も同じように、人目につかないところにミーアを降ろしたのではないか?
だとするならば、ミーアを目撃した者など、一人もいないのではないか?
そんな時だった……。
二人が乗った船とすれ違うようにして、一隻の船がセントノエルに戻っていくのが見えた。
「ありゃ? 先客がいたか?」
商人の言葉に、二人は顔を見合わせた。
「もしかして……ミーアさまを運んだ船なんじゃ……?」
咄嗟に船体の後方まで走り、すれ違った船を見る。けれどさすがに水上で止めて、乗り移って事情を聴きだすわけにもいかない。いかないが……。
「すみません。あの船が来た方向に、船を泊めてください」
アンヌも、ティオーナも、もうわかっていた。ミーアがただならぬ事態に巻き込まれたのだということは。
だから、船から降りた場所にじっと留まっているようなことはないだろうと、頭ではわかっていた。
けれど、その希望にすがるしかなかった。
「ミーアさま……、どうか」
アンヌの切実な祈りは……、けれど届かない。
船が泊まった岸辺には、求める人の姿はなかったから……。
絶望に、目の前が真っ暗になりかける。それでも諦めずに、なんとか辺りを探すけれど……、商人からもらった松明が燃え尽きるころには、アンヌの瞳からは、ぽろぽろ、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちていた。
「ミーアさま……、いったい、どこに……」
ぐずぐずと、鼻を鳴らすアンヌ。その時だ。
「アンヌさんっ! あれ!」
ティオーナが声を上げた。涙に歪む視界、目元をぬぐったアンヌは、ティオーナが指さす方に目を向けて……。
「馬……?」
木につながれた馬を見つけた。
「どうして、こんなところに馬が……?」
刹那の逡巡、けれど、アンヌはすぐに決意する。
「ティオーナさま、私の後ろに乗ってください」
「え……?」
あの日……、レムノ王国に、アンヌは連れて行ってもらえなかった。
どんな時でもミーアの傍らにありたいと強く、強く願っていたのに、ついていくことができなかった。
馬に、乗ることができなかったから……。
あの日の悔しさを糧に、アンヌは努力した。
馬に乗れるようになるために。
今度こそ……、ミーアの傍らにあるために。
そんな彼女の目の前に、一頭の馬が現れた。
恐らくは、ミーアが危機に陥っているであろう、今この瞬間に目の前に馬がいる。ならば、ほかにすることはない。
「ミーアさまは、いつでも、馬に乗る時は、馬に身を委ねていた。だから、私も……」
アンヌの、乗馬のお手本はミーアだ。
馬に、すべてを委ねてしまう奥義「背浮き乗馬」がアンヌの理想とする乗り方だ。
……何かが間違っているような気がしないではないが……。
ともかく、アンヌは決めたのだ。ミーアに、大切な主の行動に倣うことに。
「急いでください、ティオーナさま」
「ええ、わかりました」
ティオーナも覚悟を固めたのか、アンヌの後ろによじ登る。
それを確認し、アンヌは馬を走らせる。
行く先など知らない。けれど、馬の赴くままに……、その身を委ねたのだ。
その馬が、混沌の蛇が用意した……待ち合わせ場所にミーアを運ぶための馬だということも知らずに。
「アンヌさんっ! あそこっ!」
アンヌの後ろで馬に揺られることしばし。ティオーナは、それを見つける。
前方に現れた淡い光……、一瞬、月の妖精かと見間違いそうになる、その幻想的な光が、こちらへと向かってくることに。
懸命に目を凝らせば、それが、馬に乗った人間であることがわかった。
そして、
「ひぃいいいいいいっ!」
遠くに聞こえる少女の悲鳴。あれは……、あの声は!
「あれは、ミーアさま!」
アンヌがつぶやくので確信する。あれは、自分たちが探している人物であるということ。
そして、同時に、
「襲われてるの?」
そのミーアの悲鳴が、余裕を失ったものであることにも。
――ミーアさまが、あんな風に情けない悲鳴を上げるなんて、ただごとではないわ!
ティオーナは確信する。今、ミーアはきっと命の危機にあるのだと。
……実際には、結構ミーアは情けない悲鳴や、ヘンテコな悲鳴を上げているのだが……、ティオーナのイメージの中では、常にキリっとして冷静沈着なミーアなのである。
「アンヌさん、ミーアさまを援護します」
そう言って、ティオーナは、背中につけた矢筒から矢を取り出す。
練習用の矢を、先端が燃えるように細工した火矢である。
新しくもらった松明を使って点火すると、赤々と炎が立ち上った。
――さすがは、リオラ。いい細工ね……。
心の中でつぶやいて、ティオーナは弓をつがえる。
レムノ王国での革命事件で、悔しい思いをしたのは、アンヌだけではなかった。
ティオーナもまた、心の奥に悔恨を抱えた一人だった。
「なにも、できなかった……」
せっかくミーアと同行したのに、なんの役にも立つことができなかった。
その後悔から、ティオーナは弓の練習を始めた。戦う力が欲しくて……否、ミーアの役に立てる力が欲しくて……。
ティオーナは目をすがめる。
前方に揺れる二つの光。
淡い光はどちらも同じものに見えて……、どちらが襲撃者で、どちらがミーアなのかがわからなかった。万が一にも、ミーアに矢を当てるわけにはいかない。
自然、弓を持つ手が緊張で震える。
――どっちがミーアさまなの? 私は……、きちんと弓を射ることができるの?
そんな時……、ふいに、片方の光が大きく横にそれた。そこから回り込むようにして、もう片方に近づこうとして……、それが見えた。
降り注ぐ月明り、地上に向かって伸びたその一筋が、一瞬だけキラリと強い光を発するのが……。
その光の中に刹那、見えたもの、その冷たく輝くものは……。
「今のは……、剣っ!」
それは、敵が構えた剣が月を反射した輝き。
――ミーアさまが、剣を持って戦うなんてこと、あり得ない! それに、今なら少しミーア様から離れているわ! この角度なら!
確信を込めてティオーナは、流れるような動作で火矢を放った。
それは、二人の少女の想いの結実。
アンヌだけでは、馬で駆けつけることができても何もできなかった。
ティオーナは乗馬も弓もできるけど、馬を操りながら、弓を放つことはできなかった。
ゆえに……、それは彼女たち、二人の努力の結実。
それが、今この瞬間、この時に、二人をミーアの絶体絶命の危機に間に合わせた。
火矢は赤い光となって、弧を描くようにして、敵に向かっていった。
あけおめです!