第七十二話 シュトリナを信じる者(純)
聖ヴェールガ公国バンドゥル村。ベルが連れてこられたのは、夕焼けに染まる廃村だった。
建ち並ぶ朽ちかけた家々はベルの脳裏に、かつて自分がいた場所を思い出させた。
それは、幸せな夢の終わりを予感させるのに十分なものだった。
村の中央部には、少し開けた場所があった。どうやら村人が集会などをする時に使う広場らしい。
広場には覆面を付けた男が一人佇んでいた。そして、彼の足元には、付き従うようにオオカミが横になっていた。
――あれは……、大きい、犬? でも、犬ってあんなに怖い顔してたかな……?
ベルが首を傾げていると……、
「ふふ、約束通り大人しくしていただいて感謝しますよ、ベルさま。おかげで、こうして無事に目的地に来ることができた」
後ろを歩いていたバルバラが、上機嫌な声で言った。その言葉に、ベルは森に残してきたリンシャのことを思い出す。
「リンシャさん、大丈夫だったかな……」
ぽつん、とつぶやくベル。それを聞きつけたバルバラが意外そうな顔をした。
「あら、心配ですか? あの従者のことが? もう二度と会えないのだから、関係ないのではありませんか?」
その問いかけに、ベルは小さく首を振った。
「いいえ、例え二度と会えなかったとしても心配なものは心配です。それは、人として当然のことではありませんか?」
自身に忠を果たしてくれた者に礼を尽くせと、ベルの師、ルードヴィッヒは言っていた。
それに……、
――ミーアお姉さまも、きっとそうしたはずです……。
淀みのないその答えに、バルバラは忌々しげに顔を歪めた。
「そうですか。ふふ、本当にあなたは、お姫さまみたいですね」
にっこりと笑みを浮かべて、バルバラはベルの頬に手を伸ばす。どこか嗜虐的な光の浮かんだその瞳に、ベルは獲物を狙う蛇を連想する。
「気高くて、正しくて……、まったく忌々しい」
ドンッと、肩に衝撃が走る。バルバラに押されたのだ、と気付いた時には、ベルは尻もちをついていた。後ろ手に縛られていたため、バランスを上手くとることができなかったのだ。
「無様ですね。この世界の秩序の恩恵を受ける高貴なる方なのに、とっても無様。ああ、それとも、あなたは、偽物のお姫さまでしたか?」
意地の悪い笑みを浮かべたバルバラが近づいてくる。そのまま、ベルに向かって手を振り上げたところで……。
「やめなさい、バルバラ」
「あっ、リーナちゃん……」
まるでベルを守るように、シュトリナが一歩前に出た。真っすぐにバルバラを見上げて、睨み付ける。
「ベルちゃんに、乱暴なことしないで」
「あら? シュトリナお嬢さま……」
怪訝そうな顔で、バルバラが首を傾げた。
「まだ、お友だちごっこを続けるおつもりですか? というか……」
それから、口元を押さえる。吊り上がった口の端から、くつくつと、笑い声がこぼれる。
「まさか、続けることができるおつもりなのですか? こんなことをしておいて……?」
その言葉に、シュトリナの肩がぴくんと跳ねた。
バルバラは、無表情の顔をシュトリナに寄せた。両の目を大きく見開き……、化け物じみた顔でじっくりとシュトリナを見つめてから……。その耳元に口を寄せて……、
「まぁ、ミーア姫殿下が来るまでは時間があるでしょうから暇つぶしにはよろしいかもしれませんね。それに、お嬢さまは、お友だちでも殺せる立派な蛇だと、このバルバラは信じております。ですから、どんな遊びをしようと構いませんよ」
それから、わざとらしくパンっと手を打って、
「あ、そうだ。でしたら、私たちは席を外しましょう。二人きりにして差し上げますね」
「えっ……?」
「ミーア姫殿下をどうやって殺すか、相談してこなければなりませんし、シュトリナお嬢さまも、お友だちと積もるお話もあるでしょう? なにしろ、これで最後なのですから。たっぷり仲良しのお友だちとお話しして、その後、お嬢さま直々に殺していただくことにいたしましょう。確か、直接、手を下されるのは初めてでしたでしょうし、とても良い記念になるでしょう」
「ぁっ……まっ……て」
立ち去ろうとするバルバラに、シュトリナが手を伸ばした。けれど、その手がなにかを掴むことはなかった。
バルバラはオオカミを連れた男の方に行き、二、三言葉を交わしてから向こうへ行ってしまった。
後には、ベルとシュトリナが残された。
まるで、捨てられた子犬のように、途方に暮れた顔をするシュトリナと、歩き去るバルバラを見て……。
――あの人……、とっても嫌なやつです。
ベルは、ぷくーっと頬を膨らませる。
――たぶん、こうした方がリーナちゃんの心が痛いから……、二人きりにしたんだ……。リーナちゃんをいじめるために……。
そのことがわかったから……ベルは、あえて普通の口調でシュトリナに言った。
「なんだか、ちょっぴり寒くなってきましたね」
それから、ベルは、広場の中央で焚かれた、焚火の方に歩み寄った。パチパチと爆ぜる焚火を見てから、シュトリナの方を振り返り、
「えへへ、聖夜祭の焚火、見たいと思ってたんですけど、予定が変わっちゃいましたね」
明るく笑って見せた。今までと変わらない、無邪気な笑みを。
そんなベルに、シュトリナは驚いたように瞳を見開いてから……、
「うん……、そう、ね……」
小さく頷いた。それから、彼女もまたいつもと変わらない可憐な笑みを浮かべて言った。
「ね、ベルちゃん、お茶でもいかがかしら? お湯でも沸かしましょうか」
「あ、いいですね。えへへ、そういえばピクニックに来てたんでしたね」
しみじみと言いながら、ベルは空を見上げた。
「月が綺麗に出てる……。夜のピクニックも意外と楽しいかもしれません」
しばらく、夜空をぽかーんと眺めてから、ベルはシュトリナの方を見た。
「? リーナちゃん……?」
いつの間にきたのか、シュトリナがすぐそばに立っていた。その手に、小ぶりの刃物を持って……。
「動かないでね、その手じゃ、お茶が飲めないでしょう?」
にっこりと笑みを浮かべるとシュトリナは、ベルの腕をきつく縛っていた縄を切り落とした。
「あはは、ありがとうございます。実は、ちょっぴり擦れて痛くなってたんです。さすがは、リーナちゃんですね」
腕をさすりながら笑うベルに、シュトリナは小さく頷いた。
「それはよかったわ。ねぇ、お湯が沸くまで、少しだけお話しましょう?」
シュトリナは、焚火の近くに腰を下ろすと、持っていた刃物をポイっと地面に投げ捨てた。
「リーナちゃん、そんなところにナイフを置いておいたら、危ないですよ」
注意するベルだったが……、シュトリナは一向に、それを拾おうとはしなかった。
仕方なくベルはそれを拾い、シュトリナに差し出そうとする。と……、
「ねぇ、ベルちゃん、リーナね、お友だちのベルちゃんにチャンスを上げようと思うの。そのナイフ、使ってもいいよ」
「……へ?」
ベルは、きょとんと瞳を瞬かせた。
「えっと……、これを使うって、なににですか?」
「そうね、例えば……」
シュトリナは妖艶な目つきで見つめると、ベルの手を両手で握った。そのまま、刃物を自分の首筋に向ける。
「リーナを人質にして、ここを逃げてみるとか……?」
かくん、っとお人形のように首を傾げるシュトリナに、ベルはびっくりした顔で固まる。
「あの、冗談ですか?」
「本気よ? 可能性は低いけれど、このまま手をこまねいてなにもしないよりは、いいんじゃない? それとも、いっそそれでリーナのことを殺してしまうとか……。あなたの従者にひどいことをしちゃったしね。そのぐらいされても文句言えないわ……」
上目遣いにベルを見上げて、シュトリナは微笑む。
「どちらにせよ、このまま何もせずにいるよりは、いいんじゃないかしら?」
「んー……」
ベルは、自分の手の中の刃物とシュトリナとを見比べてから……、手を切らないように気を付けながら刃物の側をつかんだ。
それから持ち手側をシュトリナに向けて、それを返す。
「やめておきます」
「あら、どうして? ベルちゃん、ミーアさまに言われてたじゃない? 大切なものを簡単に手放すなって。それなのに、そんなに簡単に諦めてしまってもいいの? このままじゃあ、ベルちゃんは、ミーアさまが来ても来なくっても殺されてしまうのよ?」
低いとはいえ、それはベルが助かるための唯一の手段だった。それを捨ててしまうということは、完全に諦めてしまったことになりはしないか? シュトリナは、そう問いかけているのだ。
けれど……、ベルは瞳を閉じたまま、小さく首を振る。
「別に諦めてはいません」
誤魔化しも、負け惜しみも、一切含まれていない、その言葉はどこまでも純粋な言葉だった。
ベルは、自分が未だに諦めていないことを知っていた。
大切なものを握ったまま決して放さないように……、手のひらをぎゅっと握りしめていることを……きちんと知っていた。
「それなら、どうしてその武器を取らないの? リーナのこと人質にでもすれば、逃げ出すことだってできるかもしれないのに……」
「でも、それじゃあ、リーナちゃんのこと、取り戻せないと思います」
「え…………?」
ベルの言葉を聞いて、シュトリナは固まった。
「取り戻すって……?」
きょとん、と首を傾げるシュトリナの、その瞳を見つめて、ベルは言った。
「ずっと考えてます。大切なものを握りしめて、放さないようにって……。リーナちゃんは、ボクのお友だちだから。どうしたら、取り戻せるのかって、ずっと考えてます……。でも、どうしても、その方法を思いつかないんです。えへへ、ボクあまり頭がよくないから、ミーアお姉さまみたいにうまくいかなくって」
ベルの言葉に、シュトリナから表情が消える。
「お友だち……? ねぇ、ベルちゃん、状況が、わかってないの? リーナは、あなたに近づくために、お友だちのふりをしただけよ?」
「いいえ、それはウソです」
「どうして? なんで、そんなこと言いきれるの?」
ベルは、シュトリナを見つめたまま、その胸元に手を伸ばした。そこには……、
「だって、リーナちゃん、ボクがあげたお守り、まだ、つけてくれてるじゃないですか」
そう……、ベルがプレゼントした小さな馬のお守りが……、未だにつけられたままになっていたのだ。
「……これだけのことで? ねぇ、ベルちゃん、こんなの、あなたを騙すための手段でしかないわ」
歪んだ、無理やりな笑みを浮かべるシュトリナ。だったが、無意識にか、その手はお守りを握りしめていた。まるで、大切なものを放さないようにしているかのように……。
「でも、それでもボクは嬉しかったから……」
ベルは、そんなシュトリナに言葉をかける。
彼女の心に届くように……、大切なものを取り戻そうとするかのように……。
「嬉しかったんです。リーナちゃんに、初めてのお友だちに……、ボクが作ったものをプレゼントできたことが。それをリーナちゃんが大切に持っていて、身に着けてくれたことが、すごく……、すごく嬉しかったんです。だから……」
ベルはシュトリナの手を、両手でふわり、と掴んで、
「放さないようにしっかりと握りしめることにしたんです。ボクの大切な、お友だちのこと……ボクは絶対に放しません」
その言葉に、シュトリナは一瞬、泣きそうな顔をした。けれど……、すぐにその表情も消える。
後に残るのは、いつもと同じ、誰からも好かれるような可憐な笑みだ。仮面のように、他者を遠ざける、完璧な笑みだ。
「ねぇ、ベルちゃん……、リーナはベルちゃんのこと殺そうとしてるのよ? わかってる? リーナはお友だちだって、殺せるわ。蛇としてあなたも、それに、ミーアさまのことだって……」
そんなシュトリナに、ベルは悪戯っぽい笑みを返す。
「えへへ、ではここで、お友だちのリーナちゃんにボクのとっておきの秘密、教えてあげますね」
わざとらしく声をひそめて、ベルは囁くように言った。
「実はボク……、殺されそうになったことがあるんです。というか、この夢が覚めたら、見ず知らずの怖いおじさんたちに、殺されることになってるんです」
「へ……?」
「だから、まぁいいかなって……。リーナちゃんに、武器を突き付けて生き残るよりも……、お友だちのリーナちゃんに殺される方が……、諦めないで、大切なものを握りしめたまま死んじゃう方がいいのかなって思います。それに……」
とここで、ベルは初めて困ったような顔をして……。
「たぶん、ミーアお祖母さまは、簡単に死んだりしないと思いますけど……。なにしろ、帝国の叡智ですから」
それから、どこか誇らしげな顔で胸を張るのだった。