第七十一話 ミーアー旅行記
船を降りたミーアは、周囲の闇の深さに小さく震えた。
背後を振り返れば、松明の明かりに彩られたセントノエル島が見えた。今まで自分がいた、光に満ちた世界と比べて、ここはあまりにも暗かった。
それでも、月が出ているだけまだマシなのかもしれない。
目が慣れてくれば、あたりの様子も徐々に見えてくる。
「これならば、なんとか行けそうかしら……。ねぇ、あなた、ちょっとお聞きしたいのですけど、このバンドゥル村というのは、どちらにあるかしら?」
「バンドゥル村ですか? それでしたら、ここから北の草原を抜けた先です。古い街道が残っていますけど、もう何年も前に廃村になった村で、なにもないですよ? ……ああ、でも、逢引には確かに最適な場所かもしれませんね」
そう言って商人はニヤニヤ笑った。どうやら、下世話な想像をしたようだ。なるほど、それで、従者を伴わなくとも不審には思われないのか、とミーアは思わず感心する。
わがまま姫が、身分の低い恋仲の男と会うために、従者も連れずにこっそりと島を抜け出す。恋に恋するわがまま姫……。そう見ようと思えば、確かに今の自分はそう見えるのだろう。
まぁ、それはそれで構わないが……。ミーアは改めて、男に示された方角を見た。
「街道を行けばいいのならば、迷わずに行けそうですわね」
「ご心配でしたら、そこにつないである馬を使ったらいいんじゃないですかね? 場所を覚えてるって言ってましたよ」
男が指し示す方向には、一頭の馬がつながれていた。
それは、ミーアから見ると、いささか力強さに欠ける馬だった。荒嵐と比べると数段見劣りしてしまうレベルである。
ちなみに秋からのミーアは、荒嵐に花陽に夕兎に、と月兎馬を見続けたせいで、若干、馬審美眼が厳しくなっている。
馬マイスターになりつつあるミーアなのである。
「せっかくですけど、わたくしは、わたくしの馬で行きますわ」
ミーアは首を振りながら言う。
――ふん、悪い馬ではないのでしょうけれど、荒嵐の方が速そうですわ。恐らく、万に一つもわたくしに逃げられないように、馬で逃げても簡単に捕まえられるような、足の遅い馬にしたのでしょうが……、そうはいきませんわ。
ミーアは荒嵐の首筋を一度撫でてから、その背に乗った。「よっこいしょー」っという掛け声とともに。
……若干、お祖母ちゃん感あふれるアレな行動だったが……、なにか大きな動きをする時には掛け声は大事なのだ。下手をすると腰やら膝やらを痛めてしまうかもしれないし……。
決して、ミーアが運動不足で、若さを失っているなどということはないのである。ないったらないのである!
そんなミーアの様子を見て、商人は肩をすくめた。
「そうですか。それでは、気を付けて」
それから踵を返して、船の方へと戻っていく。島に渡っている仲間の商人を迎えに行くのか……。あるいは、今回のことに味を占めて、また生徒を島の外に運ぶ手助けをするのかもしれない……。
逢引のために島の外に出たがる生徒は、意外と多そうだし……。
――もしそうなら、愚かなことですわね。ラフィーナさまに見つかったら、お説教間違いなしですし……。人は、自分のまいた種の収穫を、自らしなければならないのですから……。
そうは思ったが、別に注意してやるつもりはない。そんな余裕はないし、所詮は自業自得というものである。
「では、行きますわよ、荒嵐」
「ぶひひん!」
荒嵐の野太いいななきが草原へと響き渡る。
商人の言っていた通り、少し行ったところに、北へと向かう街道があった。
地上を淡く照らす月明りを頼りに、ミーアは一路、廃村を目指した。
「街道といっても、今は、あまり使われていなさそうですわね……」
これから悪事をなそうとしている相手なのだから、当然、人気のない場所を選ぶのだろうが……、それでも、ひとりぼっちで草原を行くのは、いささか心細いものがあった。
「うう……、この辺りは安全みたいに聞きましたけれど、本当かしら? 猛獣とかが出てたら、暗殺される前に、食べられてしまうなんてことも……ひぃい……」
前方に蹲る闇に、なにか、凶暴な獣が潜んでいそうで……、途端に恐ろしくなってくるミーアである。
自らの前で傲然と前を向く荒嵐の姿が、今は心強い。しっかりとした力強い歩調が、秋口からずっと合わせ続けたリズムが、ミーアの心をわずかばかり落ち着かせる。
「頼みますわよ、荒嵐。もしもなにか獣がいたら、さっさと逃げるんですのよ」
「ぶひひん」
いななきとともに、荒嵐が振り返る。任せとけよ! と言っているようなその目に、ミーアはわずかに笑みを浮かべる。
「それにしても、あなたはずいぶんと幸せそうですわね。花陽とは、上手くやっておりますの?」
「ひっひーん」
「まあ、そうですの。でも、子どもには優しくしなくては駄目ですわよ? あと、パパと呼ぶことを強要してはいけませんわ。嫌われますわよ?」
ミーアは……ついに心細さと恐怖に耐えかねて、馬と会話を始めた!
騎馬王国の馬龍でさえ、できないスゴ技である! そのうち、野蛮な人間に嫌気がさして馬の国に旅立ってしまわないか心配である。
まぁ、それはさておき……。
楽しく荒嵐との対話を楽しんでいるミーアの前を、さっと黒い影が横切った!
「ひっ!」
びくり、と跳ね上がるミーア。直後、荒嵐が走り出そうとするが、すぐさま、その前に影が立ちはだかる。
ぶるるるーふ……、と荒嵐が低い声でうなり声を上げた。
基本的に、好戦的で勇敢な荒嵐であったが、闇雲にとびかかるような真似はしない。なぜなら、二人の前に現れたのは……、
「おっ、オオカミ……?」
巨大なオオカミだった。
荒嵐と、ほとんど同じぐらいの巨体、体を覆う太い筋肉が力強く盛り上がっている。
走ることに特化した荒嵐とはまるで違う体の造り、それは、まさに獲物を狩り殺すための体つきだった。
剣呑な目つきに見つめられてミーアは思わず震え……たりはしなかった。
――あら? 妙ですわね、そんなに怖くないような……。これなら、ディオンさんに睨まれた方が全然怖いですわ。
……そうなのだ。自らを殺した張本人にして、帝国最強の騎士と、ちょいちょい顔を合わせるようになってからというもの、ミーアはすっかり、殺気やら、剣呑な視線やらに対して耐性ができてしまったのだ。
それだけではなく……。
――ふむ、そもそもこのオオカミ、別にわたくしたちを襲おうという気はなさそうですわ。
なんと、相手の殺気すら、ある程度見分けることができるようになっていた。相手の殺気にはちょっとうるさい、殺気マイスターのミーアなのである!
まぁ、本人的にはあまり嬉しくないだろうが……。
オオカミは、ミーアの顔を一瞥すると、くるりと踵を返して歩き出した。
それは、まるで、ミーアたちを案内しようとしているかのようだった。
「もしや、このオオカミ、敵の手の者なんじゃ……?」
脳裏に浮かぶのは、皇女伝の記述だ。自身がオオカミにペロリとされてしまうという、アレである。
てっきり殺されて、そのまま死体を捨てられるだけかと思ったが、どうやら、敵はオオカミを使って死体を隠すことまでやろうとしたようである。
「まぁ、なんにせよ、すぐに襲ってくることはなさそうですし……。荒嵐、あのオオカミについて行ってみましょう」
ミーアの呼びかけに、荒嵐は、ぶひひん、といななきを返すのみだった。




