第六十八話 銀貨二枚分の忠誠
【聖夜祭当日 七つ鐘の刻(AM7:00)】
時間は少し遡る。
「おはようございます。ベルさま」
「あっ、リンシャさん、おはようございます」
聖夜祭、当日の朝、ベルは見るからに楽しそうな顔をしていた。
――まぁ、確かにね。聖夜祭の日にワクワクするのは、子どもなら仕方ない、か。
などと思いつつも、ついつい微笑ましくなってしまうリンシャである。
リンシャには妹はいないけれど、ベルを見ていると、なんだか妹ができたような気持ちになってしまうのだ。
――それにしても、この子、いったいミーアさまとどんな関係なんだろう?
ミーア曰くは、腹違いの妹とのことだったが……、それはさすがにどうなのだろうと思うリンシャである。
――でも、面影なんかはミーアさまに似てるし、遠縁の訳ありの子という感じなのかしら?
なんにしても手がかからない子なので、リンシャとしても大助かりである。着替えもお風呂も、高貴な者ならば従者にやらせて当然のことも、ベルは一人でこなせるのだ。
――それに、悪い子じゃないのよね。まぁ、あのお世話になった相手にお金を渡して回るのは、どうかと思うけど……。
あのやり方が、どうにもリンシャは好きになれなかった。
即物的な価値を持つお金で、お礼をするということ。
それは、相手の好意をその場で清算するということだ。
人は互いに好意を交換し、親切にしあうことで付き合いを深めていくもの。自分に良くしてくれた人には自分もまた良くすることで返せばいい。優しさには優しさを、愛には愛を返す。友人であれ、親子であれ、仲間であれ、良き主従であれ……そういうものではないかと、リンシャは思っているのだ。
けれど、お金を払ってしまえばどうか?
関係はそこで切れる。お金を払う者と、それに見合うだけの対価を差し出すもの。それだけの、ドライな関係ができあがるだけだ。それは、絆を育むことにはつながらないのではないか、とリンシャは考える。
けれど、それ以上にリンシャが気になるのは……、
――この子は、いつ自分がいなくなってもいいように、返せる時に恩を返そうとしているような気がする。いつ関係が切れても、相手に損をさせないような……、そんな付き合い方をしてるように見える。
それは、潔い生き方と言えるのかもしれない。今日会った人に明日も会えるかは、確かにわからない。だから、きちんとお礼できる時にお礼する。とてもフェアな生き方なのかもしれない。けれど、
――この子の場合には、なんだか諦めがある気がするのよね。いつ死んでもいい、と自分で思ってるような、そんなドライなところが……。
リンシャは、それが、少しだけ気に入らなかった。子どもは無邪気に明日を信じるものだ。少なくとも、このセントノエル島では、それが許されてしかるべきなのに……。
――まぁ、いいわ。私とお別れする時に、もしもお金を渡して来たらたたきかえして、お礼は言葉で言えって叱ってやるから。それでいいんだって、最後に教えてやるんだから。
などと、ついつい思ってしまうリンシャであった。
【聖夜祭当日 八つ鐘の刻(AM8:00)】
「おはよう、ベルちゃん」
食堂で、ベルが朝食をとっていた時だった。
いつの間に現れたのか、ベルの後ろにシュトリナ・エトワ・イエロームーンが立っていた。
その顔を見て、リンシャは少しだけ違和感を覚えた。
――いつも愛想良く笑ってるのに、なんだろう、今日は少し笑みが固いような……。
「? どうかしましたか? リーナちゃん。なんだか、元気がないような……」
どうやら、ベルも同じ疑問を感じたらしい。小首を傾げ、シュトリナを見つめる。
「そんなことないよ。それより、ほら見て、ベルちゃん」
そう言うと、シュトリナは首から下げたなにかをベルに見せた。
「聖夜祭だから、首から下げてみたの。どうかしら?」
それは以前、ベルが作った小さな馬のお守りだった。
「あっ、つけてくれたんですね。うふふ、嬉しいです」
ニコニコ笑みを浮かべるベル。そんなベルにシュトリナは言った。
「それでね、このトローヤのお礼に、今日のお昼、少しお外を歩かない?」
「へ? お外ですか?」
「うん。そう。この前、森でのピクニック楽しかったから。また一緒に出かけたら楽しいんじゃないかなって。どうせ燭火ミサまでなにもやることないしね」
「いいですけど、また森に行くんですか? 確か、入れないんじゃ……」
「ふふふ、毒キノコが生えているほうにはね。でも、入口近くの野原には入ることできるのよ。この前行ってきたんだ」
それから、シュトリナは可憐な笑みを浮かべる。
「ね、あの綺麗な野原に入れるのよ。とっても素敵でしょう?」
「んー、わかりました。行きましょう。えへへ、ちょっとだけ楽しみです」
ベルも嬉しそうな笑みを浮かべる。
そのやり取りを見て……なぜだろう、リンシャは嫌な予感を覚えた。
いや、嫌な感触ならば、もしかしたら、以前から覚えていたのかもしれない。
なぜならリンシャは、シュトリナの口調に含まれる成分のことをよく知っていたから。
それは、彼女の兄、扇動者ランペールが誰かを騙そうとしている時の話し方に、微妙に似た口調だったから……。
無意識下の警鐘に従うように、リンシャは口を開いた。
「では、ベルさま。私も同行しますね」
牽制するようにシュトリナと、その従者バルバラを見る。すると、
「それは助かります。私は、お昼から少し用事があったので」
バルバラは、拍子抜けするほどあっさりとリンシャに言って、深々と頭を下げた。
「どうぞ、シュトリナお嬢さまのことを、よろしくお願いいたします」
【聖夜祭当日 第二 一つ鐘の刻(PM1:00)】
昼食後、ベルとシュトリナ、それに随伴のリンシャは連れ立って森にやってきていた。
彼女の言っていた通り、森の入り口に見張りが立っていることもなく、三人はなんの問題もなく野原まで来ることができた。
先日も来た野原だったが、すでに季節は冬。どちらかというと、その光景は寒々しい感じがした。
――人がいないから、そう感じるのもあるかもしれない。町の方は、今日のお祭りで大騒ぎだったし……。さすがに、お祭りだといっても、こんなところには誰も来ないだろうしね。
「んー、前来た時とは違って、ちょっと寂しいね」
シュトリナはあたりを見回して、小さくため息を吐く。
「残念。ねぇ、ベルちゃん、もっと森の奥に行ってみましょう?」
「え? 奥ですか? でも、兵士の人に見つかったら怒られちゃうんじゃ?」
「平気よ、平気。別に悪いことしてるわけじゃないじゃない?」
そう言って、シュトリナはベルの手を引いた。戸惑っていた様子だったベルだが、やがては諦めたのか、笑みを浮かべて、シュトリナと一緒に走っていく。
二人の子どもの無邪気な姿に、リンシャは小さく安堵の息を吐く。
――子どもは、やっぱり、そういう顔してないとね。
などと思いつつ、リンシャは二人に声をかけた。
「ベルさま、シュトリナさま、あまり遠くまで行かない方が……あっ!」
……直後、ガツンっと重たい衝撃が、頭に走った。
同時に、膝から力が抜け、体が崩れ落ちる。
「……ぁっ……ぇ……」
悲鳴を上げる暇すらなく、リンシャの意識は、急速に闇に絡めとられていく。
「あっ! リンシャさんっ!」
遠くの方で、ベルの声が聞こえる。
「……ベル、さま……逃げ……」
力を振り絞って出した声は、けれど、かすれるような声で……、だからベルには届かなくって……。
「リンシャさんを殺すことは許しません!」
次に聞こえた声は、すぐ近く……、頭のすぐ上から聞こえた。
鋭くも気高い声……、今までにリンシャが聞いたことがなかった、ベルの声だ。
そんなベルをあざ笑うような声が響く。老年を迎えた女性の声、この声は……。
「あはは、許さないなんて。まるで、本物のお姫さまのようですね。聞くと思いますか? お姫さまの命令のように、あなたの言葉に従って、私がなにもせずに済ますとでも?」
くつくつ、と口の中で笑うような音。そうして、その声は続く。
「くだらないくだらない。そのようなことをして、我々になんの利点があるというのですか?」
ねっとりと、絡みついてくるかのような声。対するベルは、凛と澄み渡った声で言った。
「……もしも、リンシャさんを殺さずにいてくれたら……、大人しくついていきます。ボクをこの場で殺すことが目的ではないですよね? あなたは、ボクをミーアお姉さまの人質にしようとしているのでは?」
「……あら? 見かけによらず頭がいいのね、ベルさまは」
「ここでリンシャさんを殺したら、ボクは死ぬ気で抵抗します。それとも、気絶させていきますか? それはそれで大変だと思いますが……」
「ふふふ、ああ、本当に忌々しいぐらいに頭が働くのね。意外だったわ。確かにそう、当初の予定では、眠っていてもらう予定だったけれど……、あなたさまの協力があれば、楽に出られるでしょう」
しばしの沈黙……その後、
「いいでしょう。とどめは刺さずにおいてあげますよ。もっとも、結果的に死んでしまうこともあるかもしれませんが……。その傷では動くことはおろか、助けを呼ぶこともできないでしょうからね。無理に動けば余計に苦しむでしょうし、もしかしたら、とどめを刺してあげたほうが優しいのではないか、という気もしますけれど……。ああ、それにしても、その方も可哀想に。あなたさまに関わらなければ、こんなことにはならなかったのに……」
声はまるで、ベルを鞭打つかのように続いた。けれど、ひとまずは取引は成功したらしい。
不意に、そばにベルがしゃがみ込むような気配がして……。
「……リンシャさん、今までお世話になりました」
そう言って、ベルはごそごそとリンシャの襟元に何かを入れた。その感触……、冷たい、金属の感触を残すそれの正体が、リンシャにはすぐにわかった。
それは、二枚の銀貨だった。
「今のボクには……これぐらいしかお礼できないです。ごめんなさい。こんなことになってしまって、ごめんなさい。どうか、ご無事で」
そうして、足音が遠ざかるにつれて、リンシャの意識も遠くなっていき……。
「……ふざ…………けるな」
どのぐらい、意識を失っていたのだろうか……。
リンシャは目を覚ました。
目を開けようとして、顔をしかめる。頭から流れ落ちた血で、上手く開けることができなかったのだ。
ズキズキと痛む頭。体もふらふら、自然に揺れて、すぐにその場に倒れてしまう。
起き上がろうとして何度も失敗し、歩き出そうとして何度も転ぶ。
なるほど、確かに動いた方が事態は悪化しそうだ。これなら倒れたまま、誰かが来るのを待った方がよいかもしれない。毒キノコの見張りをしている者の交代の際に見つけられる可能性は、きっとそこまで低くはないだろうから。
でも……、それでも……。
リンシャは前に進み始める。
ずるずると体を引きずるように。
よろよろと、木にもたれかかりながら。
その腹の内から湧き出す……怒りに突き動かされるように……。
「お礼……をしたいなら……もっと、別な、形にしろ……。銀貨でお礼? こんなもの、が……、ほしくて、私は……あんたの、おもりを……、してた、んじゃない……」
ぐわん、ぐわん、と揺れる意識、なんとかそれを保つために懸命に怒る。
ベルに……、そしてそれ以上に、彼女を守り切れなかった自分自身に……。
「私、がついて、いながら……、こんな、ことに、なるなんて……」
ベルを守るつもりでいたのに、守られた。
こんな風に、銀貨でお返しをさせてしまったことに……、せざるを得ない状況を許してしまったことに、腹が立ってしょうがなかった。
けれどそこで、リンシャは皮肉げな笑みを浮かべる。
「はは、でも、そう……。銀貨二枚の、評価、か……。確かに、誘拐を許した、私、なのだから、これ、ぐらいで……、ちょうどいい、のかもね……」
ギリッと、歯を食いしばりながら、リンシャが足を止めることは、決してない。
それは、忠誠。彼女なりの、ベルへの想い。
「私の忠誠は銀貨二枚分……。なら……、銀貨二枚分に相応しい、働きを見せて、やる……だけ」
ずる、ずる、と這いずるようにして、リンシャは森の中を進んでいく。
セントノエル学園にいる、仲間たちに知らせを届けるために……。