第六十七話 ミーアお祖母ちゃんの決死の覚悟
「あ、ああ……」
ミーアは、気の抜けたような声を漏らした。
「なるほど、そういうこと……でしたのね」
皇女伝の記述が、すべて、つながっていく。
「わたくしが夜駆けのために島を出るとは、こういう……」
脅迫状には、島から渡るために懐柔しておいた商人のこと、指定場所に行くための馬のことなど、入念な指示が書かれていた。
サンテリによる警備状況を事前に聞いていたミーアは知っている。
この島は入るのには難しくとも、出ていくのは比較的、容易なのだ。特に、いつもより人の出入りが激しい、この聖夜祭の時期にあっては、出る者の厳密なチェックまでは手が回らないのが現状。それゆえに……。
「島の中での暗殺は起きにくいでしょうけれど、島から呼び出されるのは容易ということですわね……」
無論、誘拐となれば簡単ではない。さすがに、それに手を貸す商人の出入りは許されていないだろう。だけど、それが姫君のわがままだったら……?
例えば、夜風に当たりたいから少し馬で駆けたいなどという……、他愛のないわがままだったとしたら……?
ノエリージュ湖の周辺は治安も安定しているし、危険な動物もあまりいない比較的安全な場所だ。そこを駆けるぐらいならば……、危険は少ないのでは?
そう思う者がいたとしても、不思議ではない。
それはまさに、ギリギリのライン。金貨と引き換えに冒せるリスクの境界線だ。
「陰謀に加担する者はいなくとも、セントノエルに通う大貴族の子弟のわがままに付き合うぐらいならばやる者もいるかもしれませんわね……」
商人とはそういうもの。金の折り合いさえつけば、自身のリスクであっても売りに出す。
そして、その程度の覚悟で協力した者が、いざ自分のせいで暗殺が行われたと気づいたら……、恐らくは黙っているだろう。
だから皇女伝には、ミーアはわがままで外に出たと書かれていたのだ。口裏を合わせたのだろう。
ミーアは、一つ一つ島から出る流れを確認、検証していき、ため息を吐いた。
なるほど、これならばほとんどの者の注意を引くことなく、島から出ることも可能だ。
なんの障害も、ない。とすれば……。
「問われるのは、わたくしがベルの命を惜しむかどうかという、その一点」
ほかの言い訳はできない。実現不可能だ、などという言い訳は通用しない。
ベルを見捨てるか否か。ただそれだけである。
「バカバカしい。こんなの、行くわけがございませんわ」
ミーアはつぶやくように言った。
「これでは殺されに行くようなもの……、というか、実際に殺されに行くわけですし」
敵は皇女伝のことを知らない。
このまま行けば確定で殺されると、ミーアが知っていることを……知らない。
「行けば確実に殺されますし、しかも、皇女伝にベルのことが書かれていないのを見ると、どうせわたくしが行っても殺されてしまいますわ」
ミーアはやれやれ、と首を振りつつ、ドレスを脱いだ。
「そもそもわたくしが死んだら、ベルは存在しないことになってしまうのではないかしら? それなのに行くなんて、本当、愚かなことですわ。さっ、式典用の制服に着替えて……」
などと言いつつ、ミーアが手に取ったのは、乗馬用の、動きやすい服だった。
「……馬鹿げた話ですわ……」
ミーアは瞳を閉じる。
思い浮かぶのはベルの顔。この世界を夢のような世界だと、夢を見ているのだと、だから、いつ目覚めてしまってもよいように、精いっぱい楽しむのだと……、そう言って笑った、孫娘の顔だ。
そんなベルにミーアは言ったのだ。
『あなたの尊敬するお祖母さまが、決して夢を終わらせはしませんわ』
と。
「馬鹿げた話、犬死……、うぐぐ、けれど、ここで行かないとすこぶる気分が悪くなりそうですわね……」
それに……と、ミーアの脳裏に一抹の不安が過る。
もしも、これで自分が行かずに黙っていた場合、どうなるか?
生き残ることは確かにできるだろう。けれど……、その場合、暗殺者は依然として、この学園にいることになる。
つまり、いつ誰に殺されるかわからない状況だ。
加えて、敵が「ミーアがベルを見捨てたこと」を公表しないとは思えない。
そしてもし公表された場合、ミーアは周りからの信頼を失う。特に忠臣アンヌの失望は、きっと大きなものに違いない。
そうなった時、すぐに続けて暗殺されたならば、まだマシかもしれない。場合によっては、ずっといたたまれない思いを抱えたまま、生き続けなければならないのだから。
――それに……、アベルにだって顔向けできませんわね……、孫娘を見捨てたなんて。
一方、助けに行った場合はどうか?
もちろん、ミーアは殺される。さすがのミーアもこの状況でベルを助けて生き残れるなどとは思っていない。
けれど、そこには一つの希望がある。
そう……、殺されて、再び過去に戻るという可能性だ。
――あれが、そう何度も起こることとは思えませんけれど、もしもあと一回、それが起こるとするならば……。
ごくり、とミーアの喉が鳴る。
――行くという選択肢は十分に考えられますわ。敵の情報を得ることができますもの……。
ミーアが身一つで来たとなれば、敵は油断して姿を現すだろう。そうして情報を得た上で、死んで過去に遡行する。
ベルを助ける手段はそれしかないと、ミーアは確信していた。
要は、この誘拐劇が起きる前の時点で止めなければならないのだ。
「とすれば……、うう、やむをえませんわ」
着替え終わり、ミーアは静かに息を吐く。
「もう一度、死んで過去に戻る以外に、道は……ございませんわ」
ミーアは自分ファーストな人間だ。
だから、断頭台から逃れるために、国外に逃げる算段も付けていた。
けれど、断頭台の運命を回避したあの日……、ミーアの目標は微妙に変わった。
今のミーアの目標は自分が幸せになること……。そして、その目標を一点の曇りもなく達成するために、ミーアは思ったのだ。
自分だけではなく、自分の周りの人間も幸せであってほしい、と。
考えてみれば、それは、とてもとても贅沢な願いだ。自らのみならず、周りの人間の運命すら捻じ曲げてしまいかねない高慢な想いだ。
……そんなの、知ったこっちゃなかった!
ミーアは、贅沢で高慢でわがままなお姫さまなのだ。
「脅迫状には、一人で来いと書かれておりますわね。ということは誰かに助力を求めるということはできませんわ……」
敵がどこで見ているかわからない状況。下手にミーアが護衛を伴って行ったら、ベルを殺されるだけでなく姿を現さないかもしれない。情報が得られないという事態は避けるべきだ。
「……でも、一人と一頭で行くことは……禁止されておりませんわね」
ミーアは、にやり、と悪戯っぽい笑みを浮かべて厩舎の方へと向かった。
考えようによってはこの秋、一番、時間を共にした相棒のもとへと。
「まぁ、死んでしまうのは確実なのかもしれませんけれど……、せいぜいあがいて見せますわ。ただで死んでやると思っていたら大間違いですわよ、混沌の蛇」
こうして、ミーアお祖母ちゃんは、孫娘を救い出すための戦場へと向かうのだった。
ミーアは知らない。その覚悟を決めた時、皇女伝の記述がどう変わったかを……。
その踏み出した一歩は、さながら小さな蝶の羽ばたきのごとく。されど、生み出された小さな風は、巡り巡って星の裏側に巨大な竜巻を起こす……。その無形の竜のとぐろに、今まさに巻き込まれんとしていることを、竜ならぬ蛇は知る由もなかった。