第六十五話 届いた言葉と、届かぬ願い……
「あの、申し訳ありません。ミーアさま。ちょうど今、弓の鍛練を行ってきたばかりなので、私、汗臭いかもしれません……。お、お茶会とかのお誘いでしたら、すぐに着替えてきますけど……」
「あら、それはタイミングが悪かったですわね……」
ミーアは、ティオーナの格好を見て、ふむ、と唸った。
確かに、ティオーナの髪は、ほんのり汗で湿っているように見えた。あれでずっといるのは、気分が悪いだろう……。
「ああ、そうですわ。でしたら、せっかくですし、一緒にお風呂に行きましょう」
「……へ?」
きょとん、と瞳を瞬かせるティオーナに、ミーアは笑みを浮かべる。
「ちょうど、クロエから面白い入浴薬をいただいたんでしたわ。なんでも、疲労が取れるのだとか。せっかくですし、試してみましょう」
ラーニャと同じく、心配してくれたクロエが持ってきた入浴薬。今日、試しておかなければ、使う機会がなくなってしまうかもしれない。
「うん、ちょうどよいですわね」
一人で納得の頷きをしつつ、ミーアは共同浴場へと向かった。
午後の早い時間だったからだろうか。共同浴場には人影がなかった。
これは好都合! とばかりに、ミーアは入浴薬をお湯にぶちまける。
「みっ、ミーアさま、あの、よろしいんですか? そんなに、勝手なこと……」
「ふふふ、問題ございませんわ!」
ミーアは自信満々に頷く。なにしろ、今のミーアは刹那を生きているのだ。
無断でお風呂に入浴薬を入れることぐらいわけないこと……、などと思っていたミーアだったが……。直後、お湯からものすごい勢いで煙が噴き出した時には肝を冷やした。
真っ白な煙は、浴場いっぱいに広がり、近くにいるティオーナの姿さえ見えなくなってしまうほどだったのだ。
「みっ、ミーアさま?」
「……だっ、大丈夫……なはず、ですわ……。たぶん、恐らくは……」
鉄壁の自信がぐらんぐらーん、と揺らぐ。ミーアの太心は見る間にやせ細り、小心に逆戻りである。
さすがに、これはマズいんじゃないかしら……? などと思い始めたところで、ようやく煙が薄くなってくる。
まだ、湯けむりにしては色が濃い気がするが、まぁ、このぐらいならば問題はあるまい。きっと大丈夫、うん大丈夫……。
などと、自分を落ち着けてから、ミーアは「ほふぅ」っと一つため息を吐いて、それからようやく気が付く。
「あら、この香りは、月蛍草の香りかしら……?」
「そうみたいですね。とてもいい香り……」
ティオーナも、うっとり心地よさそうな顔で言った。
それから二人は、手早く体を流して浴槽に向かった。
お湯に浸かり、再び、ほふぅっとため息を吐くミーア。
――ああ、クロエが、心が落ち着く香りだと言っておりましたけれど、確かにその通りですわね……。
少し前までは緊張して、ざわざわ波立っていたミーアの心も、今では静かな凪の様相を呈していた。
――これならば、自然にお話ができそうですわ。うふふ、クロエに感謝ですわね。
ぐぐぅっと両手、両脚を伸ばして、ミーアは、うーんっと唸った。
っと、
「うふふ、よかった……」
すぐ隣で、ティオーナが小さく笑い声を漏らした。
「あら? どうかなさいましたの?」
首を傾げるミーアに、ティオーナは言った。
「ミーアさま、少しふっくらされたみたいで」
「……は?」
かちん、と固まるミーア。
少し前まで静かな凪状態だったミーアの心が、一瞬にして、ざわわ、ざわわと波立った!
けれど……、
「少し、心配していたんです。みんなで……。ミーアさまが最近、食欲がないみたいだとお聞きしてましたから」
「あ、ああ、そういうことですのね。わたくしのことを心配して……」
微妙に釈然としないながらも、ミーアは頷く。それから、自らの二の腕をふよふよとつまんでみる。
――別に、太っておりませんわよね? 前からこのぐらい、ふにょっとしておりましたし……、夏前ぐらいからこんなものだったような……あら?
「それで、あの……、お話って、なんでしょうか?」
と、何やら重大なことに気付いてしまいそうになったミーアだったが、ティオーナの声で我に返る。
「あ、ああ、そうでしたわね……」
ミーアは少しばかり姿勢を正して、それから、息を大きく吸って、吐いて……。
「わたくしには、あなたに謝らなければいけないことが、ございますの」
「え?」
唐突なミーアの言葉。ティオーナは、ただただ瞳を瞬かせる。
構わず、ミーアは続ける。
「わたくしは……、あなたに意地悪をしてしまいました……。あなたに、ひどいことをしてしまいましたの……」
浴場にミーアの声が、静かに響いた。
「なっ、なんのことですか? 私、そんなこと……。ミーアさまには、とてもよくしてもらっています。ミーアさまが私に意地悪なんて、するはずありません」
思わぬ事態に、慌てるティオーナ。
「ミーアさまが……そんなこと……」
「あら? わたくしだって、意地悪の一つや二つ、いたしますわ。例えば、恋仲の男の子にちょっかいをかけられたりとか……」
「で、でも、私、アベル王子にちょっかいかけたりだなんて……」
その時だった。
ふいにティオーナの脳裏に、昨夜の夢の光景が思い浮かんだ。
自分に謝りたい、と言っていたミーア。それを突っぱね、後でとても後悔した自分自身……。
それは、ただの夢のはずで……。取るに足りない夢のはずで……。
けれど、ティオーナの心には……確かに刻まれた思いがあった。
だから……。
「……私には、ミーアさまが、言ってることはよくわかりません。でも……もしも、ミーアさまに嫌なことをされたとして……、こうして謝ってもらったんだとしたら……、きっと……」
ミーアのことを許してはいけないと、思っている自分がいた。
許せないではなく……「許してはいけない」だ。
……それは、とても苦しいことだった。
――誰かを恨み続けることは……、なんて苦しいことなのだろう……?
ティオーナは、夢の続きを想像する。
ミーアを恨み続けた人生……、それがどれほど、彩りと輝きを失った日々であったかを。
その恨みが間違いであったと知った時……、どれほど、ミーアと話したいと願ったかを。
それから、ティオーナはミーアの顔を真っすぐに見つめた。
「きっと、ミーアさまのこと、許してると思います。その時の私は、きっと……」
ティオーナの言葉を聞いた時……、
「ああ……」
ミーアの顔から、すとん、と憑き物が落ちたように表情が消えた。そうして、次の瞬間、そこに浮かんだのは安堵の微笑みだった。
「ああ……、良かった……、これで、心残りはございませんわ」
けれど、つぶやいたその顔は、どこか、ティオーナを不安にさせるもので……。
胸の中、じりり、と焦燥感の炎がくすぶる。
「あの、ミーアさま……。私、もっとミーアさまと一緒にお話したいです」
それは、ティオーナの魂に刻み込まれた渇望。
あの夢の中では叶わなかった想い。
今ならば、叶えることができる願い。
ミーアはティオーナの言葉に、一瞬、呆けたような顔をしたが……、
「そう……。それなら……、そうですわね。聖夜祭が終わったら……、ゆっくりお話ししましょう」
「聖夜祭……?」
「そう。聖夜祭ですわ。それを無事に乗り切ることができたなら……、その時には、じっくりとお話しいたしましょう」
確かに生徒会のメンバーとしては、聖夜祭が終わるまで気持ちが落ち着かないということはわかる。
でも……。なぜだろう……、ティオーナの胸の内に、ざわざわと嫌な感覚が残る。
「それじゃあ、今日は、お付き合いいただいて感謝いたしますわ」
笑みを浮かべて、ミーアが浴槽から立ち上がった。ティオーナにはその姿が、なぜだかとても儚げに見えた。
まるで……、夜の終わりとともに、主役の座を追われる月のように……。
「あっ……」
けれど、その雰囲気はすぐに消えてしまった。
「あ、ミーアお姉さま。奇遇ですね」
「こんにちは、ミーアさま」
浴場に、ベルとシュトリナがやってきたからだ。
「あら、お二人とも、これからお風呂ですの?」
「そのつもりですけど……、なんだか、少しもくもくしてませんか?」
キョトンと首を傾げるベル。
「クロエにもらった入浴薬を使ってみましたの。たくさん煙みたいなのが出て、ちょっと楽しかったですわよ」
上機嫌に笑うミーアに、先ほどまでの儚さは微塵も感じられなくって……。
かくして、聖夜祭の日がやってくる。