第六十四話 刻み込まれた後悔と……
ティアムーン帝国における革命戦争において、革命軍を率いた聖女ティオーナ・ルドルフォン。
そんな彼女が戦いの前線に立つことは一度もなかった。
無論、軍のトップにして、旗印である彼女が命を落とすことがないように、ということもあったが、単純にその剣の腕が平凡であったからというのも理由の一つだった。
けれど彼女は、自らの手を汚さずにいることを潔しとはしなかった。
みなの役に立ちたい。自分も共に戦いたい……。そう考えた彼女が出した答え。それこそが弓術だった。
弓の名手、ルールー族の娘、リオラ・ルールーの教えを受けた、ティオーナは、その才能を見事に開花させた。その腕前は、革命軍の中でもトップクラスを誇り、多くの敵兵が彼女の弓の前に命を落とすことになった。
そうして、革命戦争は終わった。
帝室は倒れ、皇帝は処刑。皇女ミーアの処刑も数日後に迫っている。
ようやく戦いが終わった……。だというのに、ティオーナは一日数百射の弓の練習を欠かすことがない。
まるでそれは“もう取り戻せない何かを取り戻さんとする”かのように……。
幾度も、幾度も、彼女は矢を放ち続けるのだった。
そうして、弓の練習を終えたティオーナのもとに、一人の男が訪ねてきた。
「ルードヴィッヒ・ヒューイット……。貴方が、シオン王子が言っておられた……、確か、ミーア姫殿下のもとで働いていた方でしたね」
「面会に応じていただき、感謝いたします。ティオーナさま」
「大変な時に、大変な役割を与えられてしまいましたね。あなたの政治手腕は、シオン王子も高く評価されているようでしたよ。これからも、この帝国を立ち直らせるために協力していただけるといいんですけど。どうぞ」
そう言いつつ、ティオーナは、ルードヴィッヒにお茶を勧める。
それには手を付けず、ルードヴィッヒはまっすぐにティオーナを見つめた。
「本日、こちらに足を運ばせていただいたのは、お頼みしたいことがあったからです」
「…………」
ティオーナは、あえてゆっくりとした動作でお茶を口に含んだ。
その香りを楽しむように、そっと瞳を細めて、
「頼み……ですか。シオン王子にお取次ぎする、などということでしたら、喜んでお請けしますけど……」
探るように、ルードヴィッヒを見つめる。
「ミーア姫殿下に、ぜひ会っていただきたい」
対して、ルードヴィッヒの切り返しは裏表のないものだった。
「なんのためにでしょうか? 今さらお会いして、お話することなどなにもないと思いますけど……」
硬い口調で、ティオーナは言った。そんな彼女に、ルードヴィッヒが言ったのは意外なことだった。
「セントノエルにいた頃、ミーアさまは、あなたの頬を叩いたことがあったそうですね」
「…………?」
「ミーアさまはずっとあなたに、その日のことを謝りたいとおっしゃっておられました。その機会をいただければと……」
「……それは、えーっと、なんのことでしょうか?」
ティオーナは戸惑いから、思わず首を傾げていた。
そう……、セントノエル学園で、幾度となく嫌がらせを受けた彼女は、ミーアのへなちょこ張り手など記憶していなかった。そもそも痛いのが嫌いなミーアが自らの手で叩いたのだ。それこそ、その威力、頬を撫でるがごとく……。
やられた方としては、きょとんとするばかりで……、怒りよりも困惑の方が強かったのである。
ティオーナの予想外の反応に、呆気にとられた様子のルードヴィッヒだったが、一度、咳ばらいをして、
「どうか、ミーア姫殿下にお会いいただけないでしょうか? そして、ミーアさまと、対話をしていただきたいのです。そうすれば……」
「なにも変わりませんよ」
断ち切るように、放たれた言葉。それから、ティオーナは、ルードヴィッヒを睨みつける。
「今さら謝られたところで詮無きこと。なにも、なに一つ変わることはない。お父さまは帰ってこない。帝室に、大貴族に踏みつけにされ、死んでいった民衆も、生き返りはしないのだから」
それから、ティオーナはもう一度、お茶に口をつける。
――ミーア・ルーナ・ティアムーンを許してはいけない……。
自分に言い聞かせるように、その身に刻み付けるように……、ティオーナは内心でつぶやく。
――会う必要もない。言葉を交わす必要もなければ、その人柄を知る必要もない。必要がないから、しない……。
ティオーナは怖かったのだ。
話をしてしまって、彼女の為人を知ってしまって……それで、もしも情が出てしまったら……? 彼女のことを許したくなってしまったら……?
――それでは、お父さまが……、あまりにも救われない。
なるほど、確かに皇女ミーアは反省しているのかもしれない。話してみると案外良い人なのかもしれない。自らの過ちを正すことができる人なのかもしれない。
でも……、それで父は帰っては来ない。その無念を……晴らすことなどできない。
ゆえに、自分はミーアを許してはいけないのだ、と……。
ティオーナは自らの中で決めていた。
「私は、ミーア姫殿下のことを許しません」
決然と、頑なな口調でティオーナは言う。
「シオン王子に助命を進言することもしません……。ですが……」
そこで初めて、彼女は言い淀む。
「ですが……、あなたがシオン王子に面会なさるというのであれば……、それを邪魔立ても致しません」
それは慈悲か……? 否、そうではなかった。
それは、逃避だ。
ミーアという一人の人と向き合うことを、ティオーナは拒絶したのだ。
ミーアの生殺与奪に関わりたくはないと、自らの意思を、そこに向けたくないのだ、と。
自分の心が動かされないために……。
彼女を決して……、許してしまわないために……。
だから……。
ミーアの処刑が行われて、しばらくしてからのこと……。
ルドルフォン辺土伯の暗殺が皇帝の命によるものではなかったということがわかった時……。
ティオーナは後悔した。
「あの時……ミーア姫殿下とお話ししていたらよかった……のかな?」
冷静に考えれば、処刑は免れなかっただろう。ティオーナがなにをしたところで、ミーアを救うことはできなかっただろう。
けれど、それでも……。ミーアと最後まで、一言も会話をしなかったことが、ティオーナの中に後悔として残り続けた。
その後悔は、魂に刻み付けるようにつぶやいた「ミーアを許してはいけない」という言葉に、上書きされ……、ティオーナの心の内に深く刻み込まれて。
「……変な夢、見ちゃったな……」
聖夜祭を翌日に控えたその日、ティオーナは、セントノエル学園の弓練場にいた。
レムノ王国の事件で、自分の剣がまったく役に立たないことを痛感したティオーナは、悩んだ末、弓を習い始めることにした。
幸い、彼女の従者であるリオラは弓の熟練者である。その教えを受けたティオーナは、いち早く、生来の才能を開花させつつあった。
その日の練習を終え、汗を拭っているところに、とある人物が訪ねてきた。
「ティオーナさん、少し、よろしいかしら?」
「……へ? ミーア、さま……?」
奇妙な夢と被るような状況。されど、やってきたのはミーアの従者ではなく、ミーア本人で……。
「少し、お話があるのですけど、この後、お時間ございますかしら?」
ミーアの問いかけに、ティオーナはただただ頷くことしかできなかった。