第三話 記憶の中の声
「これはなんですのっ!」
「旬の野菜のシチューですが……」
どこかとぼけた口調で言う料理長。けれど、ミーアは誤魔化されるつもりはなかった。
「この野菜は、なんだと聞いているのです」
ぐぐい、っと料理長の顔の前にスプーンを近づける。
大がらな料理長とミーアとでは身長差があるので、背伸びして、つま先立ちになって、ぐぐぐいっと……。
「……黄月トマト、でございますか?」
突きつけられたものを見て、観念した、という様子で料理長が言った。周りで見ているメイドたちも、心配そうに様子を見ている。
「そんな……、これが、これが、黄月トマトだというんですの?」
信じられぬ思いで、ミーアはそれを見つめ、それから震える手でスプーンを口に入れる。
舌の先に触れた瞬間、口の中に広がる爽やかな酸味。その中に隠れたほのかな甘み。ほどよく煮込まれた野菜は、口の中で、ほろり、と崩れ、間もなくとけて消えていく。
口の中に素晴らしい余韻を残して……。
記憶の中とは異なる、絶品の味が、ミーアの感情を揺さぶった。
夢中で、ミーアはスプーンを動かした。
濃厚なとろみを残し、舌の上でとろけるシチュー、ふんわりと甘味を残すパン……。
「パンとは、こんなにも柔らかなものだったかしら?」
つぶやく声が、震えていた。気づけば、その頬を、ぽろぽろ、ぽろぽろ……、涙が伝っていた。
「ひっ、姫さま、いかがなさいましたか? 私の料理になにか問題が……?」
あせった様子で、料理長が話しかけてくる。
口いっぱいに料理を頬張ったミーアは、返事をしようとしたものの、ふがふがと言葉にならない声が出るだけだった。
あげく、喉につまらせかけて、手足をじたばた……。
あわてたメイドの一人が持ってきた水で、なんとか落ちついて……、などと、高貴なる姫君には相応しくない姿を見せた後、
「堪能しましたわ、シェフ、あなた、いい腕をしてますわね」
かたわらで落ちつかなげにしていた料理長に、ミーアは微笑みかけた。
「おほめにあずかり光栄です。ですが、姫さま、本日のシチューは素材のおいしさを活かす料理でしたから、私の手柄ではありません」
「まぁ、そうでしたの? でも、例えば、そうですわ、黄月トマト。黄月トマトとは、もっと青臭くて、渋みの強いものではなかったかしら?」
牢獄で無理やりに食べさせられた物を思い出す。固くて、苦くて、物によっては傷んでいて、とてもとてもまずかった。
「ああ……」
苦笑いを浮かべてから、料理長は言った。
「黄月トマトの場合、煮込みの手間を省くと、そのような味になることもありますな。そちらは三日かけて煮込んだものです。火加減にさえ気を付ければ、誰にでも作れるものですよ」
「……まぁ、そんなに? でも、そんなに手間がかかるのであれば、無理して食べずとも……」
「いえ、それでは姫殿下のお体に障ります。帝室の皆さまの健康をお守りするのも、臣下たる我らの務めゆえ」
胸に手を当てて、深々と頭を下げて、臣下の礼をとる料理長。かつてミーアは、それは当然、自分にささげられるものだと思いこんでいた。
でも、違った……そう、違ったのだ。
革命によって零落した彼女を、このように気づかう者はほとんどいなかった。
だから、彼女はわずかに頬をゆるめて、柔らかな笑みを浮かべて言った。
「それは、御苦労でした。堪能いたしましたわ」
「へっ……?」
素直な労いの言葉に、料理長は驚愕した。それはもう、腰を抜かしかねないばかりに驚愕した。
大きな体を飛び上がらせて、二歩、三歩と後ずさってしまったほどだ。
まさか、このわがまま姫からこんなに優しい言葉をかけられるとは、思ってもみなかったのだ。
……ミーアの日頃の行いがしのばれる。
ぽかん、と口を開け、さながら空を飛ぶ魔法使いでも目にしたかのような顔で、瞳を瞬かせた後、
「きょ、きょきょ、恐縮です」
ようやく、一言だけ答えた。
それから、照れ隠しなのだろうか、居心地悪そうに頬を掻きながら、
「ま、まぁ、もっとも、単純に値段の問題かもしれませんが……。本日お出ししたものは、庶民が一か月働いて得る給金と同程度の高級なものですからな」
「あら、そうなんですの?」
値段の話をされても、いま一つパッとこないミーアである。
そもそもが、わがまま勝手に育てられた姫君である。欲しいものは、流し目一つで手に入れてきた女なのである。
自分の生活費や、食費がいくらかかっているかとか、庶民の給金がどうとか、興味もなければ関心もないのである。
だから、料理長の言葉を聞き流しても、なんの不思議もない……。はずだったのだが、
『あなたたち王族の食事にいくらかかっているか、知っているのか?』
ふいに脳裏によみがえる嫌味っぽい声。
びっくりして、ミーアは辺りをキョロキョロと見まわした。
――なっ、なんですの!? 今のは……。
聞き覚えのある声、その声の主は……。