第三十話 ラフィーナの不安
「では、ラフィーナさま、こちらの警備計画書のチェックを生徒会でしていただけますか?」
「ええ、いつもありがとう。サンテリ」
ラフィーナの労いの言葉に頭を下げたのは初老の男だった。
彼、サンテリ・バンドラーは、このセントノエル島の警備を統括する熟練の護衛神官だった。二十五の時に、この島に赴任し、以来、三十五年、この島から出たことはない。
自らの仕事に誇りを持った職人、そんな風貌の男である。
そして実際のところ、彼の築き上げた強固な治安維持の仕組みは、この島に大陸一安全な地という栄光をもたらした。
サンテリ自身も幾度も、ヴェールガ公爵から勲章を授与されている。
そんな彼が提出した警備計画書を見て、ラフィーナはわずかに眉をひそめた。
――昨年と、ほとんど変わらない運用みたいね……。
「なにか、問題がございましたでしょうか?」
ラフィーナの様子を見つめていたサンテリが、恭しく口を開いた。
「ラフィーナさまの御身をお守りするため、また、ヴェールガの栄光を汚さぬため、最善の体制を整えたつもりですが……」
その言葉の通り、確かに警備計画は水も漏らさぬものになっていた。
もとより、この島では、入島時に厳しいチェックを設けている。不審な者が島に入り込むことはほぼ不可能であるし、外部から毒物や凶器などの持ち込みもできない。
無論、泳いで渡ることも不可能ではないが、そちらにはそちらで、しっかりとした罠がはってある。
かの帝国最強の騎士ほどの実力と機転があれば入り込むことは可能であろうが、凡百の暗殺者には、まず不可能なこと。
この島の中は、文字通り外界と隔絶された楽園……、そのような認識がラフィーナの中にはあった。加えて、聖夜祭の当日に出される料理も、ほぼ完璧に管理されている。
生徒に供される料理は学園の奥深く、一般の者は決して立ち入れぬ場所で、調理担当の神官が作ることになっている。しかも、きちんと毒見も欠かすことはない。
普段はもちろん、聖夜祭当日は、どうあっても事件など起こりようはずもないと……、そう、信じていたのだ。ラフィーナは……、そう、かつての生徒会長をしていて余裕を失っていたラフィーナは……。
けれど、ミーアが生徒会長になったおかげで、ラフィーナにも少し余裕が出てきた。
だからこそ、気づいたことなのだが……。
――完全な警備体制があるとして……、ずっとそれを使い続けるのは危険ではないかしら。
仮に、その警備体制が完成された、完璧なものであったとして……。それに企みを阻まれた者は、次の機会には、その強固な警備があることを前提にして計画を練らないだろうか?
よく計算された警護の兵士の配置があるとして、何も知らぬ者であれば、なるほど、その兵士に捕まるだろう。
けれど、その者に仲間がいたとしたなら、次は「警護の兵士がよく計算された位置に配置されている」という前提のもと、それをかいくぐる形で手を打ってくるはずで……。
――思いも寄らぬ隙を突かれる……。もしかしたら、そういうこともあるかもしれない。
それは、漠然とした不安感で、曖昧な危機感で……、されど、どこか確信めいた切迫感だった。
なにかが、起きる気がする。そんな予感に突き動かされたラフィーナは、
「サンテリ、この警備の計画だけど、本当にこれで大丈夫かしら?」
疑問を提示する。
固定化された思考ほど、危険なものはない。
安全であるという思い込みは、「もしかしたら危険かもしれない」という正常な懸念を無視させ、思考力を低下させる。
過信は禁物、そう言おうとしたのだが……。
「どういう意味でしょうか? 今まで、この段取りで失敗したことがないことは、ラフィーナさまもご存知かと思いますが……」
サンテリは、心外だ、という顔で言った。
「それはそうなのだけれど、ね……。どこかに見落としや、見直すべき点はないかしら?」
「ございません。我ら、この島の警備に遣わされた神官一同、粉骨砕身の覚悟で臨む所存です」
その上、サンテリは付け加えるようにして言った。
「もし、ご不満があれば、どうぞ、私を解任くださいますように」
やや憮然とした様子で、言ったのだ。
――うーん、困ったわね、これは……。
それは、ラフィーナにとって頭の痛い問題だった。
実際のところ、彼を抜きにして警備体制を構築し直すのはかなり大変なことだった。長年、この島の警備を担当してきた彼の識見は、真実大したものなのだ。逆にそれが思考硬直を招いている節もあるのだが、ともあれ、その知識は侮りがたく、なおかつ、非常に有益なものだった。
そんな彼を欠くことなど、できようはずもなく……。
――明確な問題とも言えないのが難しいところね。確かに、この警備計画はよくできているし、仮に彼を解任して、私自身が計画を立てたとしても下手をすると今のものより悪化してしまう危険性だってあるわね……。
手を加えて既存のものより悪くしてしまったのでは話にならない。
けれど、どうしても、このままではいけないような気がする。
――私が命令すれば、言葉通りに新しい警備計画を作ってくれるかもしれないけれど……。
それもまた、問題だ。
自発的にやる気をもってなされた仕事と、命令に不本意ながらも従ってなされた仕事とでは、やはり結果に雲泥の差が出る。
――むしろ、そういう心の間隙を突くのは蛇の得意とするところ、ですしね。
驚くほど巧みに、他人の心に入り込み、それを操るのが混沌の蛇。
サンテリとの関係がこじれれば、そこを突かれる可能性はとても高い。
ゆえに、ラフィーナがすべきことは、経験豊かなサンテリに自身の危機感を共有することであるのだが……。
――ああ、難しいわ。私自身、危機感が具体化できているわけではないのだから……。
警備体制のここに穴があるとわかっているならば、それを指摘して直してもらえばいい。けれど、ラフィーナの抱く危機感はそうではない。
それは、言うなれば、警備の穴を見つけるための心構えをせよ、ということ。
今のサンテリでは、恐らく自身の築いた警備の穴に気づけないだろうし、気づいても認めることができないかもしれない。
結果として、今年も例年と同じような警備体制で進んでいくのだろうけれど……。
――蛇の者たちが、なにもしてこないとは思えない。
どうしたものか、と頭を悩ませるラフィーナである。
サンテリが部屋を辞した後も、彼女は難しい顔でうんうん、唸っていた。
っと、ふいに、彼女の目に飛び込んできたものがあった。
それは、あの日……、生徒会選挙の日にミーア応援団がつけていた赤い布だった。
「ああ、ダメね、私……ふふ」
「? どうかなさいましたか? ラフィーナさま」
ちょうど部屋に入ってきたモニカに不思議そうな顔をされてしまい、ラフィーナは苦笑を返す。
「またしても、自分一人で背負い込もうとしていたわ。この件は生徒会で話し合うべき事柄、ならば相談しなくてはいけないわね」
ラフィーナは軽やかに立ち上がると、生徒会室に向かった。