第二十八話 インフレ×インフルエンサー
「レッドムーン公爵家の令嬢を味方に引き入れた……?」
ミーアから送られてきた報告書に目を通したルードヴィッヒは、思わず感嘆のため息を漏らした。
「……相変わらず、ミーアさまは素晴らしいな」
そこは金月省の一角。ルードヴィッヒの執務室だった。
「なるほど、レッドムーン公爵家の令嬢が味方になってくれるのであれば、軍部の改革も進めることができる。それに……、なるほど、皇女専属近衛部隊の増強も視野に入れてのことか……。さて、どうやって、味方に引き入れたのやら……」
ミーアの使った手練手管がどのようなものであったのか……。想像するだけで、知識欲を刺激されて、ついついニヤけてしまうルードヴィッヒである。
相変わらず、彼の中のミーアの評価はインフレ気味だ。しかも……、
「そうだ! 今度、ミーアさまに詳しく聞いておいて、バルタザルとの酒飲み話にしよう。師匠も呼んで、同門の者たちも何人か……」
被害者を増やそうとする、立派なインフルエンサーぶりだ!
「あはは、そうだねぇ。その話は近衛隊員でも聞きたいやつが多いんじゃないかな?」
ふと、明るい笑い声の方に視線を向けると、そこにはディオン・アライアが立っていた。
今日も今日とて、軍務の一環と称して、ルードヴィッヒのところにサボりに来たディオンである。
百人隊長を解任された彼は、黒月省の官吏である三等武官となっていた。
ティアムーン帝国における軍隊とは、大きく分けて二つの組織に分類することができる。
すなわち実働部隊である「帝国軍」と、その作戦立案・運用・人事などを統括する「黒月省」である。
言うまでもないことながら、ディオンのかつての役職である百人隊長は帝国軍に属するものだ。その彼が、後方勤務である黒月省に配置換えになったのは軍のシステム上のことであった。
かつて、戦場において大きな戦果を挙げた騎士が将軍となり、無能な判断から大損害を被ったことがあった。
有能な兵士が、有能な指揮官になるとは限らない。
その反省からティアムーン帝国では、百人隊長より上、千人隊を率いる「千人少将」より先に歩を進める者は、必ず、黒月省で後方勤務をすることになっている。そこで部隊の運用、補給線の構築、作戦立案についてなどを学び、広い視野を身につけた上で、現場に戻っていくシステムなのだ。
ディオンとしては、退屈そうなので黒月省での仕事はまっぴらだと、出世するつもりはなかったのだが、ミーアの意(ルードヴィッヒの独断)を受けて、仕方なく、黒月省に転任した形だ。出世には違いないが……、微妙に不満顔なディオンであった。
「本当、あの姫さんは飽きない子だよね。いつも予想外のことをやってくれるよ。まさか、この僕が、黒月省に勤めることになるとはねぇ」
肩をすくめて苦笑するディオン。それを見て、ルードヴィッヒは深々と頷く。
「そうだな……。ただこれで、ディオン殿には前線に戻ってもらってもよくなるかもしれない」
今後、ディオンの進むべき道は二つある。
帝国軍に戻り、将官としてより多くの兵を率いるようになるか、あるいは、黒月省に残り、軍の組織構造に口出しできる軍官僚となるか、だ。
ルードヴィッヒが欲していたのは、黒月省内へのパイプ、すなわち高等武官であったのだが……。その部分をレッドムーン公爵家の後ろ盾で賄えるのだとしたら……、おのずとディオンに求められる役割も変わる。
現場に対する影響力、そちらの方がむしろ重要になってくるかもしれないのだ。
「まぁ、それは僕としても願ったりだけどね」
と、苦笑いを浮かべるディオンであったが……、
「それに、そもそも、出世はそこまで急がなくてもよさそうだ」
続くルードヴィッヒの言葉には、わずかばかりに眉をひそめた。
「……というと?」
「当面は、別のことのために働いてもらった方がいいんじゃないかと思ってね……」
「別のこと、ねぇ」
ディオンは腕組みして、少しばかり表情を引き締める。
「イエロームーン公爵家か。夏以来、なにか怪しい兆候は?」
「部下に探らせているが……、静かなものだ。静かすぎて逆に怪しいとさえ思えるぐらいだ」
「まぁ、ガヌドス港湾国からは、当然、連絡が行っているだろうしね。表立って帝国に反旗を翻そうって言うんじゃなければ、さすがに今は動かない、か……」
「そう。だから、より深く調べる必要があると思うんだ。幸い、学園都市計画に関しては師匠に、財政再建に関してはバルタザルに任せてしまえる。つまり、私はしばらく手が空いている」
ルードヴィッヒの言葉を聞いて、ディオンは、にやりと笑みを浮かべた。
「手が空いてるんじゃなくって、手を空けたの間違いなんじゃない?」
「解釈の違いというやつだな。学問ではよくあることだよ」
肩をすくめつつ、ルードヴィッヒは言う。
「ミーア姫殿下は、混沌の蛇に関与した家の者といえど、あまり裁きたくはないようだ。直接的な関係者以外には累が及ばないようにしたいとお考えなのだろう。そのための調査を、我らを信頼してお命じになられたのだ。その信頼には応えなくてはなるまい」
軽く、メガネの位置を直してから、ルードヴィッヒはディオンを見た。
「力を貸してもらうぞ、ディオン殿」
「イエロームーン公爵家……。最古の貴族か」
ディオンは、ふん、と鼻を鳴らして、
「少しは骨のある暗殺者とか、送って来ないものかな……」
帝国の、裏の歴史が明らかになろうとしていた。