第二十五話 くねくねミーア
二周目に入って早々に、夕兎が仕掛けてきた。
先ほどのお返し、とばかりの不意打ち。今度は荒嵐がバランスを崩して、ぬかるみに突っ込んだ。
ばしゃりっと跳ね上がった泥が顔にかかり、
「ふひゃあっ!」
ミーアの悲鳴が響いた。体勢を崩しかけるミーア。それを気遣ったのか、荒嵐がちら、と後ろを振り向いて……、ニヤリ、と口の端を上げた。
――あっ、これ、気遣ってなんかいませんわ。「まだまだいけるよな、相棒?」って顔ですわ!
察した直後、ミーアは思い切り手綱をギュッと握りしめて……。
次の瞬間、今度は荒嵐が仕掛ける。
夕兎がぶつかってくるのに対して、真っ向から押し返す!
バランスを崩しかける夕兎だったが、構わず、再度の反撃。
それに合わせて、荒嵐も体を寄せていく。
一度、二度、三度、激しい体当たりの応酬は、馬上の二人を幾度も、衝撃で揺さぶった。
「くっ!」
額に汗を散らし、なんとか夕兎をコントロールしようとするルヴィ。
一方のミーアは、と言えば、それとは真逆のやり方で、事態を乗り切ろうとしていた。
海月の境地、第一の奥義「受け流し!」である。
それは、ミーアが生徒会の書類仕事をしている時に習得したものだった。
生徒会には、日々、様々な相談事が舞い込んでくる。
それをミーアは、息をするように受け流す。
クロエから上がってきた報告をさらりとラフィーナへと受け流し、サフィアスから上がってきた報告をするりとシオンへと受け流す。
そうして、彼らの返答に「いいね!」と言ってあげればいいのだ。
下から上へ、右から左へ、ミーアはやってきたものを、そのままの形で、ごく自然に受け流す。
まるで、天井から吊るされた布のごとく、あるいは、風に舞う花弁のように。
くねくね、くねくね……、衝撃に逆らうことなく、くねくね……。あえて力を抜いて流れに身を委ねて、くねくね……。
その(見ようによっては)華麗な乗りこなしに、観客の間に感心のため息が漏れる。
「ミーアさまっ! 頑張って!」
ふいに響く応援の声。そこにいたのは、ミーア応援団の面々だった。それに合わせて、方々から応援の声が鳴り響いた。
そんな彼らの目の前で、ミーアは手綱から片手を離して、ひらひらと振った。
余裕の態度に、歓声はますます大きくなっていった。
……が、もちろん、言うまでもないことではあるが、あえて言うならば、んなわきゃーない!
ミーアには、すでに余裕など、欠片ほども残されていなかったのだ。
片手をヒラヒラさせているのは、手綱から外れてしまった手を、必死に戻そうとしているだけだった。
――ひっ、ひぃいいいいいっ! お、おおち、落ちる! 落ちてしまいますわっ!
涙目になって、懸命に荒嵐の後頭部を見つめるミーア。全身全霊の精神力を眼力に費やし、眼力姫の名に恥じぬ眼光を突き刺した!
そのかいあってか、荒嵐は、不意に後ろを振り返った。
――あっ! よかった、通じましたのね!
と、一瞬、安堵しそうになるミーアだったが……荒嵐は、ニヤリ、と口の端を上げて答える。
それはまるで、
「わかってるって。必ず勝つから、俺に任せておきな! これからもっともっと速く走ってやるぜぃ!」
などという……、気合の入りまくった顔に思えてしまって……。
――ひぃいいいっ! ぜっぜ、全然通じておりませんわ!
さらに涙目になるミーアだった。
そんなミーアに、真横からルヴィの声がかかる。
「さて、ネタも尽きたなら、そろそろ、逆転させてもらおうかな」
勝利を確信した顔で、ルヴィは言うのだった。
――ここまでは、苦戦させられたけど、これで終わりだ、ミーア姫殿下……。
真横に並んだミーアを見て、ルヴィは内心でつぶやいた。
折しも、そこは二周目のカーブを抜けた先の、ゴールまでの直線だった。
まともな勝負で優位に立てる、ルヴィに極めて有利な場所……。
勝負をかけるならば、ここだ、とルヴィが思っていた場所……。
多少、差をつけられていても、ここで逆転できると踏んでいた場所……。
その、圧倒的有利な直線コース。そこに到達する直前に追いつけたことに、ルヴィは勝利を確信し……、不意に違和感を覚えた。
そんなに都合がいいことが、果たして起こるものだろうか? と。
そう……、戦術を学んだことがあるルヴィは知っている。この世界に、極めて稀に出現する天才の存在……。
相手に勝ちを確信させつつも、巧緻な罠にはめていくというやり口……。それは歴史上、幾度も戦場に現出してきた、軍略の天才たちによる、一つの芸術品だ。
天才的な軍略家というものは、相手に決して気づかせず、ともすれば相手が自ら喜んで、死地に足を踏み入れるような……、そうした計略を立てるものなのだ。
そして、ルヴィは知っている。
目の前の少女、ミーア・ルーナ・ティアムーンは、一部の有力者からは、帝国の叡智と恐れられる存在であることを。
彼女の目の前には、自らの馬をじっと見つめるミーアの姿があった。その目は決して死んでいない。
――しまった! そういうことか。
ここに、ルヴィは自らの失敗を悟る。
ミーアのブラフに、完全に乗せられてしまっていたことに遅まきながら気づいたのだ。
単純な速さ勝負ならば夕兎の方が有利……。ゆえに、相手は最初から奇襲を仕掛け、体当たりをし、速さで勝負しないやり方をしてきたのだと思った。
けれど、もしもその前提が間違っていたとしたら……?
――ミーア姫殿下の馬が、まっとうにやっても夕兎より少し遅い程度、いや……互角の速さを持っていたとしたら? 最初から、奇策に翻弄され続けたこちら側と、作戦通りの走りをしてきたミーア姫殿下の側と、どちらに余裕がある?
つまり、今までのレース展開が、互いの馬の実力差を埋めるためのものではなく……『勝利を確実にするためのもの』だったとするなら……?
ごくり、と生唾を飲み込むルヴィ。
ここに、レースは最終局面に至る。
……ちなみに、最初からここに至るまで、ずっと状況に翻弄…………もとい、状況を受け流し続けたミーアは、この場の誰より余力はないわけだが……。
「も、もう、ダメですわ……。わ、わたくし、お、落ちてしまいますわ……」
弱々しい泣き言は、大きな歓声にかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。