第二十四話 我が名は、ミーア・ルーナ・シームーン
「あはは、やってくれるな、ミーア姫殿下」
ルヴィは、顔にかかった泥を拭いながら笑った。
「うん、これでこそ、だ。これでこそだよ、ミーア殿下」
なにより、大切なものを賭けて、戦いができることが嬉しかった。
あの時は戦うことができなかったから……。
一瞬、心に浮かびかけた言葉に、ルヴィは首を傾げた。
「あの時って、いつだっけ……?」
考えても思い出せない記憶。けれど、否定しようがなく自分を動かしている後悔があった。
なるほど、負けることよりも、戦えないことの方がよほど苦しいのだと……、心のどこかで彼女は理解していたのだ。ゆえに、ルヴィは楽しげに笑うのだ。
「まだまだ、勝負は始まったばかりですよ、姫殿下。行くよ、夕兎」
ルヴィの指示に答え、夕兎が猛然と走り出す。
その華麗にして軽やかな走りは、まさに駿馬の名に相応しいものだった。
コース上を駆け抜ける赤き疾風のごとく、ぬかるみを避けつつも加速していく。
そして、その夕兎を駆るルヴィにもまた、注目が集まっていく。
「馬自体の見事さはもちろんだが、レッドムーン公爵令嬢の乗馬の腕前もなかなかのものだな」
そんな声があちこちから聞こえ始める。
大貴族のご令嬢の道楽に過ぎない、そう揶揄していた者たちは、見事に夕兎を乗りこなすルヴィにさっさと手の平を返したのだ。
けれど、それに対するミーアも負けてはいなかった。
最初こそ、ひーひー、と情けない悲鳴を上げていたミーアだったが、今は静かに淡々と騎乗していた。後ろからぐんぐんルヴィに追いすがられているが、気にするでもなく、焦るでもなく。
……もちろん、言うまでもないことだが、別に気絶しているわけでもない!
静かに前を見据える瞳。その顔には一切の表情は浮かばず、完全な無表情を保っていた。
そこから受ける印象は凪。感情の起伏の消えた、見事な乗りこなしである。
そう、走り出してからしばらくして、ミーアは気づいたのだ。
――これはもう……、わたくしがどうにかできることではないのではないかしら?
人が、大海で嵐に出会った時、その波に抗うことができるだろうか?
否、できるはずがない。
では、嵐のように暴走する荒嵐をミーアが制御することは? やはりそれもできはしないのだ。
ならば、どうすればよいのか?
ミーアはその答えを、すでに夏に発見していた。
そう、すなわち「背浮き」である!
大自然の中にあっては、人間は無力。大海原の脅威の前では、人間に抗う術はない。波にさらわれた時にすべきは、その流れに抗うのではなく、力を抜いて身をゆだねること。
――そう、海に漂う海月が大いに参考になりますわ。わたくしは海月、わたくしは海月……、ミーア・ルーナ・シームーン(海月)…………。
などとブツブツつぶやきつつ、ミーアは荒嵐の動きに合わせることに終始する。
それは、ミーアが見出した、彼女にとっての理想的な乗馬法。
ミーアはずっとなりたいと思っていたのだ。イエスマンに。
それができる人材にすべてを任せて、自分はベッドでゴロゴロしているのが、ミーアの理想なのだ。
では、乗馬においてはどうなのか?
速駆けにおける"達成すべき目標"は、言うまでもなく「他の誰よりも早くゴールに飛び込む」こと。
では、それをするのは誰か?
ここにミーアの中で一つの誤解があった。
ミーアは自分が、それをしなければならないと思っていた。
けれど、違うのだ。馬術大会で走るのは……「馬」なのである。
馬が、誰よりも速く走る術を知っているのだ。
ならば、ミーアがすべきは何か? 速く走れる者、すなわち馬に身をゆだねてしまうのである。
そして、決して邪魔をしないことが大事だ。
ゆえに、ミーアは百パーセントの力をもって、荒嵐の動きに合わせる。その動きを邪魔して、荒嵐に無駄な力を使わせないように。そして、それ以上に……落ちないように! なぜなら、落ちたら痛そうだからっ!
そうして、荒嵐のレース運びに任せていると、
「ようやく追いついたよ、ミーア姫殿下」
一周目の最終コーナーを曲がったあたりで、そんな声が聞こえてきた。
振り返ると、すぐそばに、赤い馬を駆る、男装の麗人の姿があった。
ミーアは、ルヴィの顔を見て、次にその馬、夕兎を眺めた。貴族然としていたその顔は、今や泥にまみれて見る影もない。その眼には、明確な怒りの色が見え隠れしていて……。
「今度はこちらの番だ」
ルヴィの言葉を聞いた瞬間、ミーアは悟る!
「あっ! こいつらぶつけてくるつもりでひゃああああ!?」
言葉は最後まで言えなかった。
体の傾きを感じた直後、ドスンという重たい衝撃が襲ってきたのだ。
そして、ミーアは見る。
前方で振り返る荒嵐の……得意げな顔を!
そうなのだ、荒嵐は――夕兎が体当たりしようとするのに先駆けて、自分の方から体をぶつけに行ったのだ。
「くっ、やるな。ミーア殿下」
そのタイミングは、まさに絶妙だった。
自分の方から攻め込もうとする、まさに直前の不意打ち。
体当たりに向けて体に力を入れようとした瞬間の奇襲である。
さしもの夕兎も面食らったようにバランスを崩す。それをしり目に、荒嵐は再び加速! 一気に、また差を広げてしまう。
一周目を終えて、その差は二馬身ほどになっていた。
観客の熱狂を浴びながら、レースは怒涛の二周目に入る!




