第二十三話 ミーア姫、ぬかるみに突っ込む!
「いいですわね、荒嵐。最初から……全力で行きますわよ? 先行逃げ切りですわ!」
わざとらしく、ルヴィに聞こえるように勇ましく言う。
もちろん、ブラフである。大嘘である。
荒れたコースに足を取らせて、ルヴィの自滅を誘うのがミーアの作戦だ。
――うふふ、今回は、あまり頭を使わなくっていいから楽ちんですわ。
ミーアは鼻歌交じりに、ペラペラとブラフを口にする。
少し前までであれば、それはできないことだった。
荒嵐に本当の指示であると捉えられてしまうかもしれないからだ。
相手は馬である。頭がいいといっても、あくまでも馬。ゆえに、事前にブラフを口にしますよ、と言っておいても理解できるとは思えない。だから、言い方を気を付け、言葉を選ぶ必要があったのだ。
だが、幸か不幸か、今の荒嵐にその心配はない。
すっかり腑抜けてしまった荒嵐は、ミーアがいかに言葉をかけたところで、まるでやる気を出さないからだ。どれだけ煽っても、やる気が出るとは思えない。
だからこそ……、ミーアは、ルヴィに聞かせるために高々と言う。
「いいですわね! 荒嵐。勝つことこそが正義。綺麗に勝つことなど必要ありませんわ」
セオリー通り、後半勝負にする必要などまったくない、とミーアは声高に主張する。
最初から飛ばしていこうぜ、と……ルヴィに訴えかける!
「最初が勝負! 最初が勝負ですわよ。真っ直ぐに突っ込んで、先手を取るんですわよ!」
と、その時だった。
ぶひひん、っと荒嵐のいななきが聞こえた。ゆっくりと振り返る荒嵐。その口の端は、にやり、と上がり……。
まるで「おう、任せろ!」と言ってるように見えた……。
「……あら?」
ミーアは、少しばかり嫌な予感に捉われるのだった。
そうして、荒嵐と夕兎、ミーアとルヴィが隣同士に並ぶ。
「ミーア姫殿下は先行逃げ切りの作戦をとられるんですか」
ミーアの方を見て、ルヴィが爽やかな笑みを浮かべた。
「ええ、やはり、こういった競争では、最初が肝心かと思いまして」
「ふふ、見かけによらず姫殿下は豪胆ですね」
ルヴィは、そっと細めた瞳で、コースを眺めてから……、
「私は、慎重に行かせてもらいますよ。このコースで最初から飛ばしてしまうと、後でバテてしまいますから……」
ミーアの作戦、早々に瓦解する。
「えっ、ちょっ、まっ……」
けれど、その精神的動揺から立ち直る前に、
「双方、位置について、よーい、始めっ!」
鋭い声、と同時に開始の合図、旗が振られる。
直後、二頭は一斉に駆け出した。
ルヴィの言葉通り、悠々としたスタートの夕兎。その足取りは堂々たるもので、決して焦らず、余裕を持ったものだった。対して、荒嵐は……。
「ちょっ、こっ、荒嵐、はっ、速いですわ、速すぎますわっ!」
ミーアの言葉通り、全力スタートだ! 否、それは全力を超えた全力。
魂の力を絞り出すかのような、恐ろしい速さのスタートダッシュだった!
「ひゃああああっ!」
暴走すれすれの速度に、ミーアは、悲鳴を上げた。
ぐんぐんスピードを上げていく荒嵐。見る間に、夕兎との距離が離れていく。
――ああ、こんなに、最初から飛ばしたら、後半で失速してしまいますわ。というか、これ、途中で絶対に転びますわ!
さらに、ミーアにとって想定外のことが起こる! それは……。
「あっ、そっ、そちらはっ!」
目の前に迫ってきたのは、例のぬかるみだった。
そうなのだ。荒嵐は、夕兎の方のコースに斜めに突っ走っていったのだ。
はた目から見ると、それは完全な暴走だった。
ここ最近、上手いこと荒嵐を乗りこなしていたミーアは、混乱に頭がグルグルする。
「なっ、なぜ、わざわざ走りづらいほうにぃっ!?」
悲鳴交じりのミーアの抗議に、荒嵐はちらりと振り返り、ぶっふ、と鼻を鳴らして……。
なんの躊躇いもなく、大きなぬかるみに飛び込んだ。
「ひやあああっ!」
びっしゃあんっと、泥しぶきが上がる。
ミーアは思わず、体を固くする。手綱をギュッと握った直後、荒嵐のお尻が高々と上がり、ミーアの体が空中に飛びそうになる……。が……、
「あっ…………」
ゆっくりと回転する視界、その中に、ミーアはしっかりと見た。
びっしゃっ!
荒嵐の力強い後ろ脚で蹴りだされた泥水が……、今まさに、余裕で走っていた夕兎とルヴィにぶっかけられるところを!
ひひぃいんっ! と甲高いいななき、泥水の目つぶしを食った夕兎が驚いた様子で立ちすくんだ。その勢いが完全に殺され、ルヴィも振り落とされそうになっているのが見えて……。
「な……ぁっ!」
驚愕の声を漏らすミーア。直後、荒嵐の考えが、ミーアにも理解できた。
――つまり、夕兎の前に出て、ぬかるみの泥を蹴りつけてやろうと、さては、これを最初から狙ってましたのね! 荒嵐んんんん!?
思考をまとめる余裕などなかった。
荒嵐は再び、ぐんぐん加速していく。
目の前にあるぬかるみを避けて、踏み越え、ジャンプして……。恐るべき勢いでコースを駆け抜けていく。
……実に姑息、実に卑怯なこの作戦……。
けれど、それを非難する者は誰もいなかった。
いや、むしろ……。
「おお、やるな、姫殿下……」
馬龍が小さくつぶやいたその感想に同意する者がほとんどだった。
そもそも、馬術とは、なにか……? 貴族の令嬢の優雅な趣味だろうか?
否、そうではない。そうではないのだ!
馬術とは、端的に言って戦の技術。相手に勝つための技術なのだ。
ただ速く走るだけではない。勝つため、相手を蹴落とすために最善を尽くすためのものなのだ。
にもかかわらず、周囲の者たちは誤解してしまっていた。
大国の姫の道楽、大貴族の令嬢のただの趣味。
ぬかるみを避け、力を温存し、最後の直線のみで勝負するなどという、高貴なるお嬢さま同士の小奇麗な、おとなしいレースを想像してしまっていたのだ。
その予想を大きく上回る、なりふり構わないミーアの戦術、さらに、その奇襲を跳ね除け、即座に追撃の体勢を整えつつあるルヴィに、周囲の熱は一気に上がった。
「あれが、ミーア姫殿下の馬術……。いや、ルヴィ嬢の粘りもなかなか……」
そう感心する者たちの目には、
「ひぃいいいいいっ!」
などとミーアが悲鳴を上げつつ、落ちそうになっている姿も戦術の一環なのではないか、と見えるのだった。
そんなわけはないのだが……。




