第二十二話 ミーアが煽る。夕兎も煽る!
「ふむ……、なるほど、足元がぬかるんでいるので、あまり速く走らせすぎると後半が苦しい勝負になる。クロエの言う通りみたいですわね……」
先に行われた「速駆け、男子の部」の合間に、練習の時間を与えられたミーアは、荒嵐に乗って、軽く、かるーく流してコースを一周した。
「昨日の雨の影響がかなりありますわね。下手をすると、転んでしまいそうですわ……。やはり、一度、試しておいてよかったですわ……」
調子に乗りやすく、サボりやすいミーアではあるのだが……、彼女の本質は、やはり小心者であった。下見ができるなら当然そうする。
クロエから危ないですよ、と事前に知らされていたのであれば、当然、確認するのがミーアの小心者の戦略論なのである。
「ぐぬぬ、クロエはああ言っておりましたけれど……、この中を走らせるのは、なかなかに大変ですわ……」
額に薄っすらと浮いた汗をぬぐいつつ、ミーアはため息を吐く。
ごくり、と生唾を飲みつつ、今まさに走ってきたコースをミーアは振り返った。
……いや、"走ってきた"というのは、少しばかり正確さに欠ける表現かもしれない。
馬の用語的に言えば、駈足……よりは、遅い速足……よりもさらに遅い常足…………をもう少しだけ控えめにした速度で、ミーアはコースを一周してきたのだ。
慎重に、慎重に、慎重を重ねたミーアの、試乗であった。
あまりにのんびりしていたので、荒嵐の頭には、飛んできた小鳥がとまり、なんとも平和な光景が展開されてしまったほどだ。
それはともかく……。
「これは、無事にゴールするためにも、速度は遅めに入るのが肝要ですわね。最後の直線は、多少は乾いているから、あそこに入るまではひたすらゆっくりと走って……。いや、いっそ、ルヴィさんが自滅して転ぶのを期待するということも……?」
自分ファーストかつセーフティーファーストなミーアは早速、まともに勝負する道を放棄する。
「とすれば、勝負の前に、最初から全力で行くことを見せつけておかなければ……。それで、焦って先行させて、ぬかるみに上手いことはまらせれば、あるいは……?」
などと作戦を立てていると、時間はあっという間に過ぎていった。
女子の部に参加するのは、ミーアとルヴィの二人のみ。
くじ引きによって、決められたコースを見て、ミーアは内心でにやり、とほくそ笑んだ。
――これは、よいコースが取れましたわ!
その目が見つめる前方、ルヴィと夕兎とのコースにはすぐに、ぬかるみが見えていた。
真っすぐに進めば、ぬかるみに突っ込むし、避けようと思えば遠回りになるだろう。
――今のわたくしにとっては、数少ない好材料ですわ。これだけで太刀打ちできるとは思いませんけれど、何もないよりはマシですわ……。
そう思いつつ、ミーアは荒嵐の顔を見た。
「それにしても、荒嵐から、まったく闘志を感じませんわね……」
昨日は雨だったので、練習はできなかったものの、花陽の出産以降、荒嵐はますます穏やかな顔を見せるようになっていた。
――うう、どうしたというんですの、荒嵐……。なんだか、先日からひどく達観してしまっておりますわ。
夕兎の無礼な態度に対しても、一切気にした様子のない荒嵐。そのまなざしは、なんだか、大人が子どもに向けるようだった……。やんちゃ坊主に対して、「やれやれ、仕方ないなぁ……」と微笑ましく思うような、そんな視線に見えてしまって……。
「荒嵐、わたくしを振り落とさんばかりの、あなたの迫力はどこへ行ってしまいましたの? あの迫力がなければ、万に一つも勝ち目はございませんのに……」
と、その時だった。ミーアの視界に、ある馬の姿が入ってきた。
「あっ、ほら、荒嵐、あなたのボスが見てますわよ」
それは、もう一頭の月兎馬、花陽だった。優雅な足取りで歩いてきた花陽、その手綱を引いているのは馬龍だ。
「これは、気合を入れなければいけませんわよ、荒嵐。ボスの前で無様は見せられませんわ!」
ミーアは煽る。けれど、荒嵐は、むしろニコやかに、花陽の方を見ていた。
やる気は……、やはり、見えない。
「荒嵐、笑ってごまかしてる場合ではございませんわ! そんなことでどうしますのっ! 勝てないにしても、意地というものがっ……あっ……」
っと、そんな花陽の前を一頭の馬が横切っていく。それは、ルヴィを乗せた夕兎で……。
ひひぃん……っと、夕兎は美しい声でいなないた。それから、花陽の方を見て、アピールするように尻尾を一振りする。
その優美な姿に、ミーアは、
――ああ、花陽にぴったりな優雅な振る舞いですわね……。
などと、ついつい思ってしまったのだ。が……、
「あら?」
ふいに……、ミーアは感じる。
今、荒嵐の背からナニカ……、ものすごく熱いナニカが発散されたような感触を……。
「荒嵐……、どうかなさいまして?」
ぶひひん、っと鼻を鳴らす荒嵐。その顔は、先ほどと同じように、穏やかなものではあったのだが……。
「あら、変ですわね、さっき確かに……」
しきりと首を傾げるミーア。
かくて、死闘の幕は切って落とされたのだ。




