第十六話 ミーア姫、無敵モードになる
ミーアは、基本的に早起きが苦手である。
寝ていられるものならば昼までだって寝ていたいし、ダラダラとベッドの上で過ごしたい方である。自堕落を至上の価値観とする類の人物なのである。
けれど……、ここ最近、その生活スタイルが少しだけ変化している。
最近のミーアは熱心に馬術に取り組み、体力をすっかり使い果たしてから部屋に戻るということを繰り返していた。
余計な体力の一切を使い果たしてしまうことから、その寝つきは極めて良くなっていたのだ。
夜はすこぶるよく眠れているし、その眠りはとても深い。泥のように眠る、という言葉がぴったりの有様である。
だから……、その翌朝は、早くにしゃっきり目を覚ますようになっていたのだ。
早寝早起きで適度な運動。健康優良児もここに極まれり、なのである。
そんなわけで、最近はすっかりアンヌと同じ時刻に起きるようになったミーアなのだが……。
今までであれば、ベッドの上でゴロゴロしたり、アンヌの妹、エリスから送られてきた小説を繰り返し読んだりしていたのだが……、
「ふむ、せっかく早起きしたんだったら行ってみようかしら……。ああ言ってしまった手前、毎日は無理でも時々は……、というか、せめて最初の日ぐらいは、朝のうちに顔を出しておかないと、少し落ち着きませんし……」
と、持ち前の小心者的発想から、いそいそと着替えを済ませて、殊勝にも厩舎に向かったのだった。
「おお、嬢ちゃん……随分と早いな……」
ミーアの姿を見た馬龍は、さすがに驚きを隠せないといった顔で、ミーアの方を見た。
「まさか、こんな時間から来るとは思わなかったぜ……」
「それはこちらのセリフですわ」
ミーアも、少し驚いたような口調で言った。
「こんな時間から馬の世話をしてるなんて、思っていませんでしたわ。まさか、毎日、この時間から?」
「いや、まぁ、もうじき子どもが生まれるからな。気になったってだけだ。それに、できるだけ厩舎の中は綺麗にしてやりたいからな」
「では、お手伝いいたしますわ。なにをすればいいんですの?」
「ああ、そうだな。じゃあ、一緒に掃除を手伝ってもらえるか?」
「ええ、わかりましたわ」
ミーアは馬龍から馬房用の大きなフォークを受け取ると、腕まくりした。
――やるとなれば、手は抜きませんわ。馬龍先輩もアンヌも見てますし、きっちりと花陽に恩を売って差し上げますわ!
そうして一通りの作業を終えたミーアは、厩舎を後にする。
「あー、疲れましたわ……。うう、腕が痛い……」
不意に、汗で湿った首筋に気持ちいい風が吹いてきたのを感じて、うーんっと大きく伸びをして……、直後っ! 飛び上がる!
「ひゃあっ! な、なんですの? ああ……」
と、ミーアのそばには、いつの間に来たのか、のっそり荒嵐がそばに立っていた。どうやら、先ほどの風は、荒嵐の鼻息だったようだ。爽やかさが一気に吹き飛んでしまう。
鼻面を、ミーアの後ろ髪に近づける荒嵐。その鼻がいつものようにひくひくするのを見たミーアは……、逃げることなく、むしろ堂々と胸を張る。
「ふふん、どうせこの後、朝風呂に入りますから、どれだけ汚れても平気ですわよ! ほら、やれるもんなら、やってみなさい!」
そうなのだ……。今のミーアは無敵なのである。
厩舎の掃除をして、すっかり汗で汚れてしまったので、これから朝風呂へとしゃれこむつもりのミーアである。ゆえに、その前に、どれだけ汚されても問題ないという発想!
それは、言うなれば、パンに塗るハチミツを使った遊びに似ている。
朝、目の前に出されたパンとハチミツ。
パンを真っ二つに割り、現れた白い部分に、ハチミツを塗って食すのがミーアの流儀である。が、その際、最終的にはハチミツは満遍なく塗ってしまう。それゆえに、その前に、ハチミツでちょっとした落書きで遊べるのだ。
例えば、これはあくまでも例えばであるが、「ミーア❤アベル」などと書いてニヤニヤした後で、上からハチミツをかけて塗りつぶして隠すとか……。そういう遊びである。
……別に実際にミーアがそれをしているわけではない。そういうことをした方がハチミツもたっぷり塗れるし……などと、ミーアが頻繁にやっているなどというのは、よくあるフェイクニュースの類である。
それはともかく、どうせ塗りつぶしてしまうの精神のごとく、あるいは、どうせ食べてしまえば誰にも見られないし……の精神のごとく、どうせ風呂に入って洗い流してしまえるし、の精神を持った今のミーアは無敵だった。
これから、ここに寝転んで泥遊びをしてしまってもいいぐらいの気分になっていたのだ。
「ほらほら、ほーら! いつものクシャミはどういたしましたの? いくらでも、わたくしに浴びせかけても構わないんですのよ~」
などと、勝ち誇った笑みを浮かべて、荒嵐を挑発するミーア! 実に、こう……控えめに言ってもウザイ。
一方の荒嵐は、と言うと……、ふいっと顔を背けて歩いて行ってしまった。
「あ、あら……? クシャミしませんの?」
置いてけぼりを食ったミーアは、なぜだか、ちょっとガッカリした顔をする。
「ぐぬぬ、せっかくクシャミなんかされてもへっちゃらだというところを、見せつけてやるチャンスですのに……。こいつ、やっぱりわかっててクシャミをかけてきてたのかしら……。ん? それとも、もしかして、ようやくわたくしの前に膝を屈するつもりになったとか?」
と、その言葉をまるで理解しているかのように、荒嵐が立ち止まり……、
「ぶひひん……」
などと、口の端を上げて笑みを浮かべた。
「なっ、なんですのっ!? その笑い方! ぐっ、こいつ、やっぱり、わたくしのことを馬鹿にしてますわね! そうなんですのね!?」
荒嵐は、今度は振り返ることなく、ただ、その太く立派な尻尾がゆらーん、ゆらーん、っとミーアを小馬鹿にするように振られるのみだった。




