第九話 ミーア姫、風になる
「ひぃいいいいいいいやあああああああああっ!」
広い馬場に、ミーアの大絶叫が響き渡る。
小さな体を押し倒そうとするかのように、前方から吹き付けてくる風! 強風! 暴風!
それはまるで、分厚い壁のごとく、ミーアの全身にぶち当たってきた。
幸いなことに、ミーアの後ろには、馬龍の分厚い体があるから、後ろに吹き飛ばされないのは良いのだが……、その分、豪風と胸板という、二枚の壁に押しはさまれて、ミーアはぺしゃんこになりそうになっていた。
流れる風に髪が乱れ、恐ろしい勢いで踊っている。
ミーアは吹き飛ばされないように、懸命に手綱を握りしめ、ギュッと、前のめりに体を固くする。
涙で滲んだ視界の隅で、周囲の景色が糸を引きながら後方へと飛び去って行くのが見える。
馬場と外とを隔てる柵が、青々と茂る木が、草が、周りで見ている人が、すさまじい勢いで後方へと飛び去って行く。
ふいに、前方で舞い上がる落ち葉。それが、ものすごい勢いで、ミーアの髪をかすめて消えた。通り過ぎる瞬間、びしゅんっ! と鋭い音が耳元で鳴った。
その音に似たものをミーアは知っていた。
以前、ルールー族に矢を射られた時、そっくりなものを聞いた記憶がある!
「ふひゃあああああっ、ひやああああああああっ!」
絶叫しつつ、ミーアは少し前の自身の発言を悔いていた。
――ああ、なぜ、わたくしは、あんなことを言ってしまったのかしら? なぜ、あんなことを……?
馬場に出てきたミーアは、早速、馬龍の操る月兎馬に試乗した。
一周、二周と回る、そのスピードは、先日、ミーアが馬を暴走させた時よりも速かった。
その暴力的なまでの速度感に、早くも若干の涙目になるミーア。そんな様子を察した馬龍は言ってくれたのだ。
「今日は、軽く流すだけにしておくか? 徐々に慣れていけばいいわけだし……」
それに対して……ミーアは引きつった笑みを浮かべる……。
――軽く? いっ、今ので軽く流しただけなんですの?
などと、内心ではビビりまくるミーア。
その時に、素直に言っておけばよかったのだ。今日は、もうこれで終わりにしましょう、と。今日は軽く流すだけでやめておきましょう、と……。
けれど、ミーア、ついつい言ってしまった。
「ふふん、余裕ですわ。軽く流しただけとおっしゃいますが、確かにこの程度、軽いもんですわね」
見栄があったのだ……。馬龍なしでも乗りこなして見せるとか、そんな大口を叩いてしまった以上、弱気なところは見せられない。
さらに、
「そっ、想像してたより、ぜんぜん大したこと、ございませんわね。月兎馬なんて言っても、チョロイものですわ!」
そんなことまで口にしてしまった。
『もう、月兎馬の実力も見極めましたし、今日はこのぐらいで勘弁してやりますわ』
などと言って、さっさか逃げ出そうとしていたミーアは、そこでふと気が付いた。
目の前、馬の耳が微妙に角度が変えていることに。
まるで、自分たちの会話を聞こうとするかのように、こちらを向いていることに……。
直後、荒嵐がぶひひぃいいいんっと高くいなないた。
「あっ、やべ……」
後ろから、馬龍の不穏なつぶやき。直後に、
「嬢ちゃん、しっかり掴まってな。あと、口を開くな。舌を噛むぞ!」
「……はぇ?」
鋭い警告の声。同時に再びの太く雄々しいいななきの後、荒嵐は走り出す。
ごう、っと、風の出す轟音が、耳に飛び込んできて……。
そして、ミーアは風になった。
――あ、ああ、ついつい調子に乗ってしまう。わたくしの悪い癖ですわ……。
荒嵐がコーナーを曲がる。と同時に、体が吹き飛ばされそうになるのを、ミーアは必死にこらえる。根性でしがみつき、なんとか目を見開く。
瞬間、視界に飛び込んできたもの、それは、こちらをチラッと振り返る荒嵐の顔だった。
その口元が、にぃっと笑ったように見えて……。
――くっ、こっ、こいつ……わたくしのこと、ナメてますわね!? ナメくさっておりますわねっ!?
ミーアの闘志に火が付いた。
――こっ、この程度で音を上げるなどと思ったら大間違いですわ。こっ、こんなの、ギロチンに比べれば……、それに、ディオンさんに殺気を向けられることを思えば、よ、よゆ、よゆー! ……あ、やっぱり嘘。ごめんなさい、ごめんなさい、ひぃいいい! 許してくださいましー!
そんな感じで、月兎馬を堪能したミーアは、ようやく、馬から降りることができた。
地面に足をつけた瞬間、体が、フラーっと揺れる。
「っと、嬢ちゃん、大丈夫か?」
慌てて、馬龍が駆け寄ろうとするが、その前に……。
「おっと、ミーア。足元、気をつけたまえ」
「君にしては不用心だな」
「…………はぇ?」
両腕を支えられる。ぼやーっと顔を上げると、そこには、二人の王子がミーアの顔を覗き込んでいるのが見えた。
「……あ、あら? アベルとシオン……。こんなところでなにを?」
「馬術の鍛練だが……。来たら、ミーアが速乗りをしていたから、見学させてもらってたんだ」
涼しい顔で言うシオン。その言葉を継いで、アベルが言った。
「ついにミーアも月兎馬デビューか。乗り心地はどうだったかね? 足元がおぼつかないようだけど、大丈夫かい?」
優しげな笑みを浮かべるアベルに、ミーアは思わず見とれそうになって……。
「え、ええ、問題ありませんわ」
精一杯の虚勢を張って、ミーアは言った。
「ふ、ふふん、こ、こんなの、わたくしにかかれば、よ、よゆう……ですわ」
支えてくれた二人にお礼を言ってから、ミーアは優雅に荒嵐の方に歩み寄る。
優しくその鼻先を撫でつつ、小さな声でつぶやく。
「……先ほど、わたくしのこと、笑ってましたわね? ずいぶんとナメた真似をしてくれたものですわ。わたくしが、誰だか、わかって……んっ?」
と、不意に荒嵐が、大きく息を吸い込んだ、かと思った次の瞬間……、ミーアの方を向いて……。
ぶわぁあああっくしょんっ! と、ド派手なくしゃみをした。
「うひゃあああっ!」
風と涎と鼻水の嵐に巻き込まれたミーアは、こてん、っとその場に尻もちをついた。
「あ……あぁ……」
呆然と荒嵐の方を見て、それから自らの身体を見下ろす。
ベタベタと頬に張り付く髪の感触、ぐっちょり濡れたシャツがなんとも気持ち悪かった。
「あー、嬢ちゃん。荒嵐は人間の言葉をある程度理解できるから、あんまりナメられないように気をつけな」
馬龍の注意の言葉と同時に、荒嵐は、にぃいっと口角を上げてミーアを見下ろした。
――こっ、こいつ、わたくしのこと、完全にナメてますわっ!




