第66.5話 小さな祈りが届く時
今回は番外編。ラーニャのお姉さんをスカウトするお話
「どうか……、こんな不幸なことが、世界からなくなりますように……」
それは、ある少女の祈り。
とある国の姫だった少女は、飢餓に見舞われた村を訪れた時、死にかけた子どもが、助けを求めて伸ばした手を取ることができなかった。
その時の光景は、いつまでもいつまでも、彼女の心から消えることはなかった。
だから、少女は、その祈りを胸に抱いた。
けれど、幾度も祈ろうと、どれだけ強く願おうと、それが聞かれることはなかった。
神の気まぐれのごとく、飢饉は国を襲い、人々を痛めつけた。
いつしか、少女は思うようになっていた。
自分の祈りは、神に届いていないのではないか?
神は、自分の祈りなど、気にも留めていないのではないか?
ならば、仕方ない。
ならば、私は私の力で、その不幸をなくして見せる。
少女は努力した。
自国を富ませ、民が飢えることのなきように、ひたすらに努力を積み上げる。
そして、少女は自らの『祈り』を忘れた。
ペルージャン農業国の姫君は、夏休み前から母国へ帰国するのが習わしになっている。
それは、農作物の収穫をする先頭に立つため。
さらには、その収穫を神に感謝し、来年の豊作を祈る、収穫祭の巫女を務めるためである。
中央正教会も公認の行事であるため、セントノエル学園の方でも正式に、休みを取ることが認められている。
もっとも、そのせいで、夏前の剣術大会などのイベントには参加できないわけだが……。
学生時代、アーシャ・タフリーフ・ペルージャンは、そのことを一度も寂しいと思ったことはなかった。その年の収穫量次第で民が死に、国が傾く『農業国』の姫として、豊作を祈ることは大切な務めだからだ。
その考えに、少しだけ変化が生まれたのは彼女が十五の年になった時のこと。セントノエル学園で、植物学という学問に出会った日のことだった。
知識の有無で収穫量が大きく変わる。その事実は、アーシャにとって衝撃的だった。
農業国の姫でありながら、国民である農民たちがどのような研鑽を積み重ねてきたのか、知らなかったことを恥じた。
それと同時に、彼女は見つけたと思った。
農業国の姫としてできること……。
植物学の知識を生かして、より良い作物を作って、国を豊かにする。
貧しいペルージャンから、飢餓を一掃する。
以来、アーシャは勉学に力を入れるようになる。
努力のかいもあって、その知識は学園の講師にも匹敵するほどのものとなった。
身に着けたその知識を使い、国をもっと富ませる。農業を改革する。強い小麦を作る。
セントノエル学園を卒業する日、アーシャの胸には熱く燃える思いがあった。
そうして、希望を胸に帰ってきた彼女に、父親である国王は言った。
「折を見て、どこかの国の貴族と婚儀を結ぶように」と。
当然、アーシャは反発した。
自分は技術者として、研究者として、ペルージャンを支えていきたいのだ。どうして、それをわかってくれないのか、と。
けれど……、母から諭され、姉から諭される中で、彼女の熱意はしぼんでいった。
自分がやってきたことは自己満足にすぎないことで……、荒れ地に種を蒔くような不毛なことだったのではなかったか……。
そんな風に落ち込む彼女の唯一の味方になってくれたのは、妹であるラーニャ姫だった。
いつでも、アーシャの勉学の応援をしてくれていたラーニャであったが、セントノエル学園より帰って早々、アーシャに驚くべきことを告げた。
「ねぇ、アーシャ姉さま、ティアムーン帝国に新しくできる学園都市で講師の仕事をしてみる気はない?」
「えっと、どういうことかしら?」
詳しく聞いてみて、アーシャは納得する。
なるほど、ラーニャはティアムーン帝国の皇女ミーアと親しくしていると言っていた。
ラーニャは「アーシャ姉さまの見識を、ミーアさまがすごく評価してくださって」などと言っているが……。恐らく、今のアーシャの境遇を何とかしようと思って、ラーニャがお願いしたのだろう。
けれど……。
「王女であるアーシャ姉さまが皇女殿下の学園で講師をするとなれば、どこかの貴族と結婚するよりよっぽどいいコネを作ることになるわ。ペルージャンとティアムーンとの関係だって強まるし、それに……」
「残念だけど、ラーニャ。そのお話は受けられません」
ラーニャの話を途中で遮り、アーシャはゆっくりと首を振った。
「え……?」
まさか、断られるとは思っていなかったのだろう。ラーニャはポカンと口を開いてから、
「そんな……、どうして?」
「説明する必要があるでしょうか? あのような屈辱を受けて……、ティアムーンの姫の下で働くなど、とても考えられないことです」
アーシャが企画した、ペルージャンの農作物披露パーティーにおける帝国貴族の子弟たちの振る舞い……。
弱小国の貧しい果物だ、家畜が食べるような野菜だ、と、彼らは散々にペルージャンを馬鹿にした。あまつさえ、農民たちが苦労して作った野菜を、果物を、床に放り捨てたのだ。
あの日の屈辱を思い出すたびに、アーシャの腹の中に、ぐつぐつと熱い怒りが沸き上がる。
「あなたは上手く姫殿下と友誼を結べたようだけど、私には無理。協力する義理もありません。だから、姫殿下には正式にお断りすると、あなたの方から伝えておいてください」
ラーニャからの手紙がミーアのもとに届いたのは、二日後のことだった。
ベルマン子爵領にて、ようやくルードヴィッヒの師匠、賢者ガルヴの勧誘に成功したミーアは、帝都でつかの間の休息を楽しんでいたところだったのだが……。
「って! なにやってますのっ!? あいつら、ほんとに、なにやってますのっ!?」
ベッドにうつぶせになって、ラーニャからの手紙を読んでいたミーアは、ぐあーーっ! っと頭を抱えて、足をパタパタさせた。
それから、おもむろにベッドの上の枕を取り上げ、ポスポスと叩き始めた。
しばし暴れて、それからようやく落ち着きを取り戻し……、
「しかし……、とりあえず、そういうことでしたら、詫びを入れておくのが良いですわね」
必要とあらば、いくらでも頭を下げる所存のミーアである。むしろ、頭を下げるだけならば安いものだとさえ考えている。
……まぁ、実際、ミーアの頭は安いものであるが。
ということで、ミーアは早速、謝罪の手紙をしたためると、早馬に託してペルージャンに送った。けれど、ことはそう簡単には進まないもので。
ラーニャから戻ってきた手紙を見たミーアは、思わずため息を吐いた。
「まぁ、そうですわよね……」
手紙には「別に、ミーアに謝ってもらわなくても構わない」という趣旨のことをアーシャが言っていると書かれていた。当然のことながら、それで納得して、講師の話を引き受けてくれるとはならない。
ちょびっと謝っただけで、すべてが上手くいくならば苦労はないのである。
「やはり、当事者に心からの謝罪をさせる必要がございますわね……」
ということで、ミーアは一計を案じた。
要するに、パーティーの席でアーシャを馬鹿にした連中に、ペルージャンの農作物の味を認めさせ、その上で謝罪させればいいのだ。
「ペルージャンの農作物は美味しいものが多いですし、料理次第では、心を打つことなど容易な気がいたしますけれど……、でも、いくら美味しくても、あの方たちって、あんまり感動しなさそうな気がいたしますわね」
帝国には、農業に対して理不尽な嫌悪感を抱く貴族が多い。農作物に対しても同様に、どこか低く見るような傾向がある。だから、どれだけ美味しくて感動したとしても、それを素直に褒めない可能性が高い。
ならばどうするか?
「ただの農作物で褒めないなら、彼らが褒めざるを得ないようにすればよいのですわ」
ただの≪美味しい農作物≫では褒めない。
では≪美味しい”栄光ある帝国産”の農作物≫ならば、どうか? あるいは……、
「≪”弱小国ペルージャンより”美味しい帝国産の農作物≫ならば……どうかしら?」
アーシャを馬鹿にしたのは、帝国中央の門閥貴族の子弟だ。帝国に対するプライドで凝り固まった彼らは、自国を誇り、他国を貶めることを至上の喜びとしている者たちである。
――そんな者たちを手の平の上で転がすことなど、簡単ですわ!
などと、ミーアは、にんまりと策士っぽい笑みを浮かべる。あくまでも策士っぽいだけであって、別にミーアは策士ではないのだが……。
ともあれ、プランはすんなりと固まった。
まず、アーシャと、彼女を馬鹿にした貴族の子弟を、ミーアがお茶会に招待する。
そこにペルージャン産の農作物の料理を並べておくのだ。もちろん、どこ産とは言わずに。
そうして、そこでミーアが言ってやるのだ。
「このお料理に使われている野菜は絶品ですわ!」
と。
そうすると、呼ばれた方はミーアの言葉を聞き、次に招待されたアーシャを見て思うわけだ。
「なるほど、ミーア姫殿下は、帝国産の農産物がペルージャン農業国のものより優れていると言いたいのか!」
などと、勝手に誤解するのだ。
「ペルージャンの招待を受けておきながら、パーティー会場で悪しざまに言うような連中ですし、きっとそう考えるはずですわ。そして、恐らくわたくしの後について褒めるはず。そこでネタバラしということになりますわね。とすると場所は、やはり帝国内がよろしいですわね……」
基本的に、農業全般を低く見ている貴族たちではあるが、そこは比較の問題である。
ペルージャンの農作物と、帝国でとれる農作物との比較であれば、彼らはきっとこぞって、褒め称えるに違いない。そこで、実は、この農作物はすべてペルージャンで作られたものである、とネタバラしをして、一気に、アーシャに謝罪させるわけである。
「そのためには、最もよさそうな場所は……ルドルフォン辺土伯にお願いするのがベストの選択……かしら」
辺土伯もまた、帝国貴族には嫌われている存在ではあるが、それでも帝国貴族ではある。彼らが、属国と見下す小国ペルージャンよりは、仲間意識を持たれているだろう。
そこで豊富な農作物を振舞えば、きっと彼らは、それをルドルフォン辺土伯の領地でとれたものと誤解し、帝国の収穫物の方が素晴らしい! などと言ってくれるはず。
さらに場所的にも、ペルージャンに近く、ミーア学園の建設予定地にもほど近い。
そのままの流れで、学園の見学にどうぞ、などとやるには、場所としてはベストな立地といえる。
「正直、ルドルフォン辺土伯に頭を下げるのは少し癪ですけれど……」
まぁでも、自分が頭を下げれば解決するならば問題ない。
ミーアの頭など安いものなのである。
「あとは……、そうですわね。演出効果を狙って、学園に通う予定の子どもたちも呼んでおくのも、効果的かもしれませんわ」
ミーアはさらに、用意周到に思考を進めていく。
もし仮に貴族たちが謝罪したとしても、講師の話を引き受けてもらえるとは限らない。
ゆえに、講師の話を断りづらい環境を整える。
作戦は簡単だ。
アーシャに、教える対象の子どもたちを、実際に見せてやるのだ。
「セロくんは、見るからに賢そうな子ですし、呼んでおくとよさそうですわね。自由に質問してもらって、講師意欲を高めるのがよろしいですわね……」
質問内容を指定しないのは、当然、ミーアが全く知識がないからである。
わからない部分は詳しい人間に放り投げる。ミーアのスタンスである。
「それに、ワグルは、いい子だから、きっと気に入るはずですわ。あとは、あの孤児院の……セリアさんと言ったかしら? あの子もせっかくですから呼んでおきましょうか」
セロ以外の二人については、境遇をアピールしてもらおうと考えている。
恐らく、アーシャ姫は帝国貴族に対して良い印象を持っていない。であるならば、生徒は貴族の子弟ばかりでなく、むしろ、平民からとりますよ、孤児院からも優秀な子を呼びますよ、とアピールするのだ。
ペルージャンの王族は民との距離が近しいという。ならば、二人の存在は必ずや、「依頼を断りづらい要因」になるはずなのだ。
戦いが始まる前に、すでに勝利を確定させてしまいたい。ミーアの小心が、外堀をせっせと埋めさせていく。
こうして万全の態勢を整えて、ミーアはお茶会を開催した。
「ようこそ、おいでくださいました。アーシャ・タフリーフ・ペルージャン姫殿下。収穫祭の準備でお忙しいところを、お越しいただき、感謝いたしますわ」
にこやかに笑みを浮かべるミーアを見て、アーシャは招待に応じてしまったことを少しだけ後悔していた。先日、講師の話を断ってしまったこともあって、さすがに断りづらかったわけだが……。
「いえ、お招きにあずかり光栄です、ミーア姫殿下」
言いつつ、アーシャは招待客に目をやった。
そこに揃っていたのは、あの日、パーティーでアーシャを馬鹿にした者たちばかりだ。ニヤニヤと、今もアーシャを蔑むような眼で見つめていた。
――ミーアさまは、先日、私がお断りしたから、その腹いせに馬鹿にするつもりかしら? けれど、ラーニャから聞いていたお人柄では、そういうことはなさらない方のはず。とすれば、逆に彼らに命じて、謝罪でもさせるつもりでしょうか……?
今さら謝ってもらっても、講師の話を引き受けるつもりはないのだが……、とアーシャは小さくため息を吐いた。
そうして始まったお茶会は、アーシャの目から見ると、いささか白々しいものだった。
供される料理、そのすべてに、ペルージャン産の野菜や果物が使われているのだ。
一口食べただけで、アーシャはそのことに気づいた。
そして、ミーアはその料理をあからさまに褒めた。褒めて褒めて褒めまくった。
いくらなんでも褒めすぎだろう、というぐらいに、それはもう、本当にほっぺたが落ちてしまうのではないか、というぐらいの勢いで食べて食べて、褒めまくる。
――見え見えのお世辞ですね。もっとも、あの演技は見事ですけど……。
心の底から料理を堪能しているように見えるミーアに、アーシャは半ば呆れ、半ば感心する。
「本当に、絶品ですわ。このケーキ。このフルーツがたまりませんわ!」
「そうですね。さすがは、我が帝国産の果物、どこぞの弱小の農業国とは比べ物になりません」
不用意に、一人の青年貴族が口にした一言……。それを聞いたミーアは、にんまりと笑みを浮かべて……、
「あら、実は……今日のお料理に使われている農作物は、すべて、ペルージャン産のものなんですのよ?」
猿芝居を始めた。
――なるほど、さんざん褒めていた野菜が馬鹿にしていたペルージャン産のものだと突き付けて、そうして謝罪をさせようということですか。
どこか白けた様子で、アーシャは、そのやり取りを見つめていた。
恐らく彼らはミーアの命令を受けて、謝罪するために呼ばれたのだろう。
――本当に下らないお芝居。もし本気で、そんなことを考えてるんだとしたら、ミーア姫殿下も大した人とは思えないですね……。
しかし、そこまで体裁を整えられてしまえば、アーシャとしても謝罪を受け入れないわけにはいかない。さらに、ミーアの要請にも応えなければならないかもしれない。
理由もなく、依頼を断れるほど、帝国の姫の権威は軽くはないのだ。
――それもこれも、我が国が弱いから……。貧しいから……。
暗澹たる気持ちで成り行きを見守っていたアーシャだったが……、そんな彼女の目の前で、予想外の事態が展開されていた。
自分たちが美味しいと褒め称えていたもの、それがあろうことか、馬鹿にしていたペルージャン産のものだと指摘された貴族の子弟たちは……。
「ああ、なるほど、ペルージャン産のつまらない果物を使い、これだけ美味しいケーキを作るとは、さすがは我が帝国の料理人というわけですな!」
「つまり、今日の会は、いかに品質の劣る材料を使って味の良い料理を作るか、とそういうことなのですね」
予想の斜め上を行く、トンデモなことを言い出した。
「……はぇ?」
さすがに、その答えは予想外だったのか、ミーアもきょとんと瞳を瞬かせている。
一方のアーシャは、冷めた目で、貴族の子弟たちのことを眺めていた。
――ああ、なんて、つまらない人たちでしょう……。
この期に及んで、まだ自らの間違いを認めることができないなんて、謝ることができないなんて……、なんて愚かな者たちなのだろう……。そう呆れるのと同時に、アーシャは疑問を覚えた。
――でも、いったいミーア姫殿下はなにをしたかったのかしら? あの人たちに謝らせたいなら、事前に命令しておけばいいのに……。
当然、それをすべきである。こんなことになることを予想できない者が、帝国の叡智などという大仰な名前で呼ばれるはずがないわけで……。
っと、その時だった。
「あの、アーシャ姫殿下……」
おずおずと、お茶会に参加していた少年が話しかけてきた。年の頃は、ラーニャよりも少し下だろうか。少年のそばには、同い年ぐらいの少年と少女もいた。ほかの参加者に比べて幼い印象の彼らのことは、アーシャも気にはなっていたのだ。
「なにかしら? えーっと……」
アーシャは穏やかな笑みを浮かべつつも考える。
このお茶会が、アーシャに対する謝罪の場であるとするなら、この子たちはなにか? と。
そんなアーシャの疑問を察したのか、少年は、セロ・ルドルフォンと名乗った。
どうやら、この地の領主の息子らしい。その隣の少年はワグル、さらにその隣の少女はセリアと名乗った。
「丁寧な自己紹介をありがとう。それで?」
「あ、はい。このパスタに使われている粉は、もしかすると……、冷月蕎麦の実ですか?」
「そうだと思いますけど……」
料理の材料をなんでこっちに聞きますかね? と思いつつ、アーシャは頷いて見せた。
「それがなにか?」
「はい。もしも、これが冷月蕎麦の実だとしたら、すごいと思って」
「……あら、どうしてですか?」
アーシャの瞳が、すっと細くなる。じっと見つめる先で、セロは小さな声で言った。
「この蕎麦の実は、この季節には採れません。冬の間に収穫したはずです。だけど、このパスタ、採れたての新鮮な冷月蕎麦の風味がします。これはどうなっているんでしょうか?」
セロの言葉を聞いて、アーシャは驚愕した。
目の前の少年は……、ペルージャンの技術の高さを、しっかりと見抜いているのだ。
「よくわかりましたね。それは品種改良によって、少し温かい時期に実をつけるようにした冷月蕎麦です」
「えっ? そんなものがあるのですか? それはどうやって……」
驚きの声を上げるセロ。それから、次々に投げかけられた質問は、彼の植物への知識の深さを証明していた。
――この子は、いったい……?
そんな疑問を覚えたアーシャだったが、すぐに答えは提示された。
「僕たち、ミーアさまの学園に通わせていただく予定なんです」
――ああ、なるほど……この子たちが生徒になるのですね……。
そう思うと、少しだけだけど興味が出てきた。あの無礼な者たちへの憎しみなど、どうでもいいと思えるぐらいには……。
――そうか……。もしかして、ミーア姫殿下は、あんなつまらない連中の謝罪なんか意味がないって、それを見せたかったということでしょうか……?
アーシャはふと思った。
そもそも、それはアーシャ自身が言ったことだ。
『ミーアに謝罪してもらっても意味がない』と。
同じようにミーアの命令で、無理やり謝らせることにも、きっと意味はなくって。むしろ、愚にもつかない連中の謝罪なんか、もらったところで、なんの得にもなりはしないのだ。
そんなつまらない感情に捉われて、優秀な子どもたちに教育を施す、その機会を逸するのか? と。
あるいは、意義深い研究を続けることを放棄するのか、と。
ミーアが、そんな風に問うてきているように、アーシャは思った。
けれど……、そうではなかった。
「それにしても、ミーアさまは、どうして、植物学を教える学校を帝国内に造ろうと考えられたのでしょう?」
疑問に感じたアーシャは、思わずつぶやいていた。
帝国では、農業やそれに関するものは低く見られがちな傾向にある。だから、わざわざ皇女の肝いりの学園に、植物学の授業を設ける必要はないのではないか?
その疑問に答えてくれたのは、ワグルという少年だった。
「ミーアさま、言ってました。飢えてさえいなければ、何事もなんとかなるものだ、って……」
より正確に言うならば「飢えてさえいなければ、何事もなんとかなるもの。革命も起こらないし、ギロチンにかけられる心配だってないのだから」という趣旨のことだったが……。当然、アーシャは知る由もない。
それから、ワグルは少しだけ恥ずかしそうな笑みを浮かべながら、ミーアとの出会いの話をした。
ワグルが貧民街で飢えて倒れているところを助けたというエピソードを。
それに次いで、セリアも口を開いた。彼女もまた、孤児院の出身で、飢えを知る少女だった。
「飢えてさえいなければ、何事もなんとかなるもの……。だから、食料が必要……。たくさんの食料を得るために、植物学の知識が必要。農業技術の向上が必要になってくる……」
ミーアの言葉は、アーシャの胸に深々と突き刺さり、えぐった。
なぜならそれは、アーシャの原点とも言える言葉だったから。
農業国と呼ばれるペルージャンも、かつて飢饉に襲われたことがあった。
その年は雨が多く、日の恵みが足りないせいで、様々な農作物の収穫量が激減した年だった。
ペルージャンの王族は、国民たる農民と近しい間柄にあった。
それゆえに、アーシャは父である王について、各地の農村を巡り歩いた。
空腹に倒れる民を見て……、年端もいかぬ子どもが、助けを求めて伸ばす手を見て……。
こんなものは見たくないと。こんな不幸が、二度とあってはならないと思って……。
だから、こんな不幸が世界からなくなるように、と祈ったのだ。
アーシャは改めて、目の前の少年たちを見た。
一見すると、衣食が整えられた子どもたち。そんな彼らが、あの日見た、死にかけの子どもたちと重なって見えた……。
ペルージャン一国が豊かになっても意味がないのだ。
帝国を上回る力を得て、すべての国を席巻するほどに強くなったとしても、それは一国だけのことなのだ、と。
それでは、あの日の不幸な光景がなくなることは決してないのだ。
ペルージャンで見なくなるだけのことなのだ。世界のどこかでは、やっぱり同じような不幸が起きて、空腹に倒れる子どもたちがいる。
そして、それは、今、目の前にいる子どもたちであるかもしれない。
――私は、なんのためにセントノエルに行ったんだったっけ?
農業国の農業技術を高めて、国を富ませるため? ペルージャンの民の安寧のため?
否、そうではない。そうではなかったのだ。
あの不幸を繰り返したくないから……。誰もが空腹に倒れることがないような世界にしたかったから……。
――だから、私は、植物学を勉強しようって、思ったのでしたね……。
それは、幼き少女の小さな祈りだった。
どうか、この世界に、そんな不幸なことが起こらないようにしてください、と。
けれど、いくら祈っても、祈っても、収穫が減る時は減る。
飢えて死ぬ者はなくならなかった。
だから、祈りは聞かれないと、意味などないと、いつしか諦めていた。
だけど……。
目の前に差し伸べられた手があった。
小さくも気高き、帝国の姫殿下の手。
彼女は、ふいに気が付いた。
ずっと自分の祈る声は届いていないのだと思っていた。でも、もしかしたら、違うのかもしれない。
目の前の、この少女こそが、祈りへの答えなのかもしれない。
世界から、あのような不幸をなくす、そのための道が、今、目の前に開かれているのかもしれない。
――それなら、私は……。私は……!
ジワジワと、胸の奥から湧き上がる、不思議な感情に背中を押されて、アーシャはミーアに言った。
「ミーア姫殿下、あの、講師のお話なのですが、ぜひ引き受けたく思います」
「…………ふぁぇ?」
すっかり作戦が外れたと思い、ケーキのやけ食いをしていたミーアは、口いっぱいに入れていたケーキのせいで、うまく答えることができなかった。
アーシャ・タフリーフ・ペルージャン。
それは、歴史に刻まれるべき英雄の名。天才寵児セロ・ルドルフォンと共同で、冷害に強い麦を産み出し、大陸から飢餓を一掃した、偉大なる女性学者の名だ……。
かくて、先見性に優れた稀代の戦略家ミーアは見事にアーシャを口説き落とすことに成功した。
そう、準備の段階で、すでに帝国の叡智は勝利を確定させていたのだ。
戦いが始まる前から勝利を手にするという離れ業をやった"先読みの人"ミーアはすっかり上機嫌に、お腹一杯、ケーキやお菓子を楽しんだ。無計画に、甘いものをたくさんたくさん食べた……。
ミーアは忘れていたのだ。今が夏前の……割と大事な時期であることを……。
未来を読めなかったのだ。
まさか、一か月ほど先に、あのような屈辱的な出来事が待っているなんて……。
ミーアが自分がFNYってることに気づくまで……、あと……四十日。
昔、宣教師さんに聞いたお話。
ある所に海に落ちて溺れている男がいた。
そんな男を助けようと、近くの船から浮き輪が投げ入れられた。けれど、男は浮き輪を受け取らずに言った。
「いや、神様が助けてくれるから大丈夫」
その後も何度も浮き輪が投げ入れられ、ライフセイバーが男を助けに行ったが、男の答えは変わらない。
「いや、神様が助けてくれるから大丈夫」
やがて、男は溺れ死んでしまった。
天国に行った男は神様に尋ねた。
「神様、どうして助けてくれなかったんですか?」
神様は答えた。
「……いや、あんなにたくさん助けを送ったじゃない?」
人は自分が期待する形の助けを求めるが、神は人が想像していないような形で助けを送ることがある。
祈りが聞かれないのか、祈りは聞かれたけど人が気づいていないだけなのか……。
そんなお話を思い出しつつ、今回のお話を書きました。
そんなこんなで、第二部も一区切りということで、来週は夏休みということにさせていただきます。
再来週の月曜日から、また投稿再開……の予定です。
またお会いできる日を楽しみにしております。




