第百十三話 大海の勇者、ミーア姫、猛々しい雄たけびを上げる!
「ほらー! ほらほらほら、ほーらっ! 無事でしたわ、やっぱり! 私のエメラルドスター号があの程度のショボい嵐で沈んじゃうわけないって思ってましたわ! ほらー、ぜんっぜん無傷! あの威容! さすがは私のエメラルドスター号ですわ!」
なぜだか、エメラルダが勝ち誇った笑みを浮かべた。
いささか、ウザッ! と思ったミーアであったが、まぁ、このまま何事もなく帰れるなら、これでいいか、と思い直す。
それよりも大事なことは……、
「さて、どういたします? あそこまで泳ぐのは結構、大変そうですけど……」
エメラルドスター号までの距離は、およそ四〇〇mといったところである。
――助けが来たのは嬉しいですけれど……、空腹にグッとくる距離ですわね。あちらから来ていただけると楽なんですけど……。
ミーアは小さく首を傾げて言った。
「例の小舟を出していただけると楽でいいですわね……。ここから呼びかけて届かないかしら?」
「さすがにこの距離は難しいんじゃないかな……」
ミーアの言葉に、苦笑したアベルは、
「よし。それじゃあ、ボクが先に行って、小舟を出してもらおう」
そう言って、颯爽と泳いで行ってしまう。
「ふむ、アベルに一人で苦労していただくのは少し気が引けますけれど……。確かに、あそこまで泳いでいくのは大変そうですわね……」
高きところから低きところに流れていく、流水のごとき柔軟さがミーアの思考の特徴だ。
少しでも近づいていた方が向こうからの助けと合流するのも早くなるはず……などと思ったりは当然しない。
――ああ、本当、海は力を抜けば体が浮くから楽ちんですわー。
などと、ぼんやり、空を見上げている。
下弦の海月の面目躍如である。
そうして、ポーっと海面を眺めていたミーアは、不意に気付いた。
自分の方にすぃーっと寄ってくる背びれに!
「…………あら? なにかしら、あれは?」
ぽけーっと首を傾げるミーアであったが、直後、後ろの方で悲鳴が上がった。
「みっ、ミーアさまっ! たっ、たた、大変! 大変ですわ、あれ、あれあれっ! ひっ、人食い魚ですわっ!」
「…………はぇ?」
一瞬、何を言われたのか、まったくわからなかったミーアであるが、ぽけーっと再び背びれに目を向け……その大きさを確認し……、それが人食い魚のものであった場合にどうなるのかを、即座に理解する。
すなわち、自分は今……生きるか死ぬかの瀬戸際にいるということを!
「急いでエメラルドスター号まで逃げますわよっ! あっ、あちらも気づいて小舟を出してくれてますわ。ともかく、お急ぎになってっ!」
言うが早いか、アンヌの手を引いたままのエメラルダが泳ぎだした。
「ひっ、ひぃいっ! ひいいいいいいっ!」
ミーアも慌てて泳ぎだす。といってても、ミーアにできることはそう多くはない。
くるりと華麗に裏返り、背泳ぎの体勢をとり、バタ足する!
小さく頼りない足で、懸命に水を蹴る、蹴るっ!
けれど……当然、そのスピードはお察しである。
今は焦っているせいで、余計に、ぱっちゃぱっちゃ、と小さな水しぶきが立つばかりで、その体は一向に前へと進まない。
さらに、
「ひいいいっ、ひぃいいいいいいいいっ!」
ミーアの泳ぎ方は、息継ぎが楽な反面、後ろがとてもよく見える。
すぃーっと自分の方に向かってくる、太くて巨大な背びれが、ガッツリ見えてしまって。
「ひぃややああああああ、きっ、来てますわっ、近づいて来てますわっ!」
本来であれば、人食い巨大魚に狙われた時点で、逃げ切れるものではないのだが……、ミーアを追いかけてきている背びれは、なぜか、急いで距離を詰めてこようとはしなかった。
まるで、獲物をいたぶるかのように……、ゆっくり、ゆっくり近づいてきているのだ。
――う、ぐぐ、おっ、おのれ、バカにしておりますわね。かくなる上は……っ!
もはやこれまで……とばかりにミーアは覚悟を決めた。
そうなのだ、そもそも皇女伝の記述が本当ならば、自分はあの人食い巨大魚を殴り倒すことになっているのだ。倒せるのだっ!
ギリっと歯を食いしばると、ミーアは雄々しくも気合の雄たけびを上げる。
歴戦の戦士が上げるような、猛々しい雄たけび(ミーアの中では)は……、周囲の者の耳には、
「ふひゃあああっ!」
などという奇声に聞こえていたが、そのようなことを気にしている余裕は、もはやミーアにはない。
ミーアは近づいてくる巨大怪魚に向けて思い切り腕をブンブン、と振り回した。
それは、ちょうど、幼い男子が、こうすれば誰も近づいてこられないから最強だ! と考えてするような、腕をぶんぶんぶん回す動作だった。誰をも傷つけられそうもない、そんなヘナチョコパンチであったのだが……、そこで奇跡が起きた!
ミーアの手が、巨大怪魚の鼻っ面をぴしゃん、とひっぱたいたのだっ!
ぶにょぅん、という微妙な手ごたえ。反射的に目を開いたミーアは、自分から遠ざかっていく背びれの姿を見つけた。
直後、小舟が近づいてきた。
「すごい! すごいですわ、ミーアさま! 人食い巨大魚を殴り倒すなんて!」
小舟の上から、エメラルダが差し伸ばした手を取り、引きあげてもらう。
「ふ、ふふふ、あ、ああ、当たり前ですわ。このぐらい、わたくしにかかれば、かかっ、簡単っ、簡単ですわっ! どんとこいですわっ!」
得意げに胸を張るミーアであったが……、そそくさと引き上げられた小舟の真ん中の方に場所を移して、しっかりと、落ちないように掴まる。
「さっ、さぁ、帰りますわよっ! とっとと! 急いでっ!」
そうして、涙目で勇ましく言うのだった。
……ちなみに、すでにお察しのこととは思うが、ミーアが殴り倒したのは人食い巨大魚ではなかった。
平べったい魚を縦にしたような、大人しい魚……、学術名『オーシャン・フルムーンフィッシュ』、通称『ムーンボウ』と呼ばれる魚だった。
岩にぶつかっただけで死んでしまうこともあるムーンボウだったが、幸いにもミーアのへなちょこパンチでケガをすることはなく……。
えらい災難だったなぁ、などと思いつつ、すぃーっと泳ぎ去っていくのだった。
平和な海の光景だった。
ちなみにオーシャン サン フィッシュ=マンボウですが、オーシャン・フルムーンフィッシュ=ムーンボウは、背びれを海面から出す近い種類の魚とお考えいただけると……。




