第百十二話 ミーア姫、牽引される
「エメラルダさんの、あんな素直な笑顔、はじめて見ましたわ……」
水の中に消えたエメラルダを見送ってから、ミーアはぽつり、とつぶやいた。
まるで、毒気が抜けてしまった笑顔。
それは、いい笑顔なのだけど……なんとなく、胸がざわつく。
なぜだろう、ミーアは、あのお茶会の約束をした日のことを思い出してしまった。
あの日の別れ際のエメラルダも、あんな感じのいい笑顔をしていたのではなかったか?
「なんだか、エメラルダさんらしからぬ頼もしさでしたし……。なんだか、少し心配ですわね……」
そうして、そのまま、五分が経った。
「エメラルダさん、大丈夫かしら……」
心配そうにつぶやくミーアに、アンヌが笑みを浮かべた。
「大丈夫ですよ、ミーアさま。それに、まだ五分ぐらいですよ。エメラルダさまを信じましょう」
「ええ、そうですわね……」
そのまま、十分が経った。
「……大丈夫かしら、エメラルダさん。無理してケガしたりなんかは……」
「大丈夫だ、ミーア。彼女は、ボクたちの中でも泳ぎが一番上手いし、滅多なことはないさ」
ミーアを安心させるためだろうか。明るく軽い口調で、アベルが言う。
けれど、ミーアは重々しく頷くのみだった。
そして……、だんだん、だんだんとミーアの口数は少なくなっていき、三十分が経った頃には、すでに半泣きになっていた。
時間が経つにつれ、脳裏に無限に悪い想像が膨らんでくる。
このような場所で、様子を見に行った者が帰ってこないということが、なにを意味するのか……?
それは考えるまでもなく明らかで……。さらに、先ほどの優しい笑顔が思い出されて……。
ミーアは、思っていた。
別に、エメラルダのことは親友だなんて思ってないし、せいぜいがちょっとした友達程度のものだと……。
しかし、思い返してみると、彼女との付き合いは割と長いのだ。
それはもう、お茶会デビューもそうだったし、お誕生会にも何度も招待されたし、ミーア自身の誕生日もしっかりとお祝いしてくれた。
最近は忙しくてそこまででもなかったが、昔は一緒にお揃いのドレスを仕立てて笑いあったこともある。
だから……ミーアは別に、エメラルダのことを唯一無二の親友だなどとは思わないけれど……、それでも、いい友だちには変わりなかったのだ。
失ってしまえば、涙が出るぐらいには……親しい人だったのだ。
「う、うう、エメラルダさん……。ひくっ、だ、大丈夫だって……、必ず、帰ってくるって……言ってましたのに……。ひどい、ひどいですわ……、うう、あなたは……また、わたくしを、裏切って……」
一時間も経つ頃にはミーアは大泣き状態になっていた。
顔中を涙でベットベトにして、えぐえぐ、としゃくりあげるミーア。その頭を優しく撫でつつ、慰めているアンヌも、若干涙目になってきたところで……。
ぱしゃり、と、後ろで水音が響いた。
と同時に、ぷはっと息を吐く音が聞こえて……。
「ふぅ、お待たせしてしまい申し訳ございませんでした。ただいま戻りましたわ」
あっけらかんとした顔をしたエメラルダが戻ってきた。
泳いで気持ちよかったのだろうか。若干、その顔はツヤツヤして、実に元気そうだった。
「外までは、ここから五分というところですわね。大丈夫、少し潜るところもございますが、ミーアさまでも行けそうですわ」
水を滴らせつつ、ミーアたちのところに来たエメラルダは、はて? と首を傾げた。
「どうかなさいましたの? なんだか、雰囲気が……」
「ずいぶんと、時間がかかりましたわね……」
すすす、っと近づいてきたミーアに、エメラルダは胸元のペンダントを差し出した。
「ああ、月灯石に日光を集めておりましたの。明かりがないと少し厳しい道のりですし。それと、冷えてしまった体を温めるために、少し岩の上で日光浴を……あら? どうかなさいましたの? ミーアさま? はひっ!?」
言葉の途中で、ミーアがひっしとエメラルダに抱き着いた。そのまま、お腹のあたりをギュウギュウと締め上げて、ミーアが言った。
「心配いたしましたわ! すっごく心配したんですのよ! もう、帰ってこないんじゃないかって……」
「まぁ、ミーアさま……」
エメラルダはちょっぴり驚いた顔をしたが……、
「大丈夫、大丈夫ですわ、ミーアさま。私は決して、親友であるあなたを裏切ることはございません。ええ、もう、二度と……」
すぐに優しい笑みを浮かべるのだった。
落ち着いたところで、改めてエメラルダからこの先のことを聞く。
「先ほども申しましたけれど、それほど距離はございませんわ。道も一本道で、迷うこともないでしょう。一か所、二か所、水の中を進まなければならない場所がございますけれど……ミーアさまぐらい泳げれば問題ないと思いますわ」
それを聞いて、顔を曇らせたのはアンヌだった。
平民であるアンヌは、ミーア以上に泳いだ経験がなかったのだ。
「ふむ、でしたら、アンヌさんは私と一緒に行くのがよろしいですわ」
こともなげに言ったエメラルダ。けれど、さすがにミーアは眉をひそめる。
「あなた……、エメラルダさん、ですわよね? どうかなさいましたの? 頭でも打ったとか……」
「まっ! 酷いですわ、ミーアさま。私はただ、親友たるミーアさまの大切なメイドだから、少しは優しくしてやってもいいかな、と思っただけですわ!」
強い口調でそう言って、それから、エメラルダはわずかに瞳を逸らした。
「それに、その……、いろいろお世話になりましたし……。恩義をきちんと返すのも、高貴なる血筋の者の礼というものではなくって?」
――ああ、ほんと、エメラルダさんは、面倒くさい性格ですわ。わたくしの親類とはとても思えませんわね……。
そうは思いつつ、ミーアは頷いた。
「わかりましたわ。エメラルダさん、アンヌのこと、お願いいたしますわね」
こうして、隊列は決まった。
先頭をエメラルダが先導し、続いてアンヌが。さらにその後に、アベルとミーアが続く。
本来であれば、アベルが殿を守るべきではあるのだが、彼がミーアの前に出なければならないのには理由があった。それは……。
「ここからは少し深いな。足がつかなそうだよ」
「わかりましたわ!」
ミーアは心得た、とばかりに頷くと、すっと後ろを向き……、背泳ぎの形に浮いた。
そのミーアの襟首を掴んで、アベルが前を泳いでいく。
そう、この順番にした理由は、アベルがミーアを牽引して泳がなければならないためだったのだ!
……まぁ、それはともかく。
前を行くエメラルダの、掲げた明かりを追って行く。
エメラルダの言う通り、道のりはそこまで厳しくもない。
何度か泳ぎ、潜り、を繰り返し……、やがて前方に光が見えてきた。
「もうひと頑張りですわ。みなさん!」
エメラルダの励ます声が聞こえてくる。
別に頑張ってなかったが、それでもミーアはその声に励まされて、水をかく手足に力を入れた。そして……。
「ぁっ……」
視界に走ったまぶしさに、ミーアは思わず顔を覆う。
直後に感じたのは強い潮風。耳に入るのは、寄せては返す穏やかな波の音。
徐々に慣れてきた目には、晴れ渡る青い空が入ってきて……。
「あ……、ああ、無事に、出られたんですのね……」
思わず、安堵に力が抜けそうになる。といっても、仰向けに浮いているので、別に今まで力が入っていたわけではないのだが……。
それから、ミーアは改めて、近くにいる面々に目を移す。
少し離れたところにはエメラルダとアンヌ。そして、自分のすぐ近くにはアベルの姿があった。
――ああ、全員で生きて出られるなんて……夢みたいですわ。
思わず感動しそうになるミーアであったが、さらに、夢のような出来事は続く。
「あっ! あれは、エメラルドスター号ですわ!」
歓声を上げつつ、エメラルダが指さした先、懐かしい船の姿があった。
「助かった……わたくしたち、助かったんですの?」
そうつぶやいて笑みを浮かべるミーアは、あと少しすると……思い出すことになる。
ミーア皇女伝のとある記述……。
自身が、こんな無人島に来ることになった、その原因の記述を。
平和な海に現れた巨大な影……。
それが、自分たちの背後に、音もなく近づきつつあることに、ミーアはまだ気づいていなかった……。