第百十話 親友
――ああ、いつも、この方はこうですわ……。
「こんなの気にする必要はありませんわ。大丈夫……」
目の前で、困ったような笑みを浮かべるミーアを見ながら、エメラルダは思い出していた。
それは、今から五年前のこと。
グリーンムーン公爵家で開かれたお茶会での出来事だった。
その日、エメラルダは少しだけ緊張していた。
なぜならば、その日のお茶会には皇女ミーア・ルーナ・ティアムーンが来る予定になっていたためだ。
皇女殿下のお茶会デビューを自身の屋敷でする。それが決まって以来、エメラルダは父の元で、しっかりと準備をしていた。
その甲斐あってか、お茶会はつつがなく進んでいった。
美味しいケーキにご満悦な様子のミーアは、お代わりを持ってきたメイドにニコニコ上機嫌に笑いかけた。
「あら、ありがと。えーっと、ニーナさん。また、食べ終わったら、お代わりお願いね」
得意げにその名前を口にするミーア。どうやら、メイドたちのやり取りを聞いて、名前をおぼえていたらしい。
そのことを誇るかのようなその態度に、エメラルダは思わず苦笑する。
きっと、その無作法を幼き姫殿下は知らないのだと、そう思ったから……。
年上のお姉さんとして教えてあげなければならないと思ったのだ。
「ミーアさま、高貴なる身分の方は平民の名前などいちいちおぼえないものですわ。だから、メイドの名前なんか呼んではいけませんわ」
「あら? なぜですの?」
きょとん、と首を傾げてミーアは言った。
「なぜ、名前を呼んではいけませんの?」
「それは……」
エメラルダは一瞬、考え込んでから、
「それは、私やミーアさまが貴い血筋の者だからです。民の上に立つ者だからです。それが貴族というものの伝統であって……」
それは、エメラルダが立つ土台。いわば彼女の常識だ。
けれど……、
「そんなのバカらしいですわ」
幼き姫殿下は、たった一言でそれを切って捨てた。
「名前をおぼえる方が楽ですのに、どうして、そんなことをしなければならないのかしら?」
その言葉は、エメラルダにとって衝撃的だった。衝撃的過ぎた……。
あまりに衝撃的だったために……、
「だって、あの方、わたくしたちとあまり年齢も代わりませんでしょう。どれだけケーキのお代わりをお願いしても断らなさそうですわ。お願いする時に名前を呼べた方が楽……」
という、その後のちょっとアレな言葉を聞き逃してしまったほどだ。
昔から、ちゃっかり者のミーアである。
齢八つにして、この打算……後の帝国の叡智の片鱗が見られるエピソードのような、そうでもないような……。
それはともかく、エメラルダはミーアの一言に感動してしまったのだ。
その言葉(聞き逃したところ以外)は、まさにエメラルダの胸中と合致したものだったからだ。
メイドの名前をおぼえておいて、慣れ親しんだメイドを指名して世話をしてもらう。
遊び相手や話し相手になってもらう。
なにかをしてもらったらお礼をして、悪いことをしたら謝る。
その方がよほど楽で気持ちいいのに、どうしてしてはいけないんだろう?
それをしてはいけない理由って、なんだろう?
生まれた疑問を、エメラルダは父に尋ねた。
けれど、返ってきたのは困ったような笑顔だ。
「それが貴族というものだよ、エメラルダ」
その答えは到底納得のいくものではなくって……。けれど、そういうものか、とエメラルダは理解した。
納得する必要などない。そうなっているから、そうなのだ、と。
それは、いつしか、エメラルダを縛る鎖となった。
貴族のしきたりはエメラルダを形作ると同時に、彼女を縛る頑丈な鎖なのだ。
そして……だからこそ憧れたのだ。
その鎖に縛られない幼き姫殿下、ミーア・ルーナ・ティアムーンに。
「ねぇ、エメラルダさん……」
初代皇帝の、尊重すべきティアムーン帝国の開祖の、縛られるべき貴い言葉を前にしても……、ミーアの態度は変わらない。
気にする必要はないと言う。
エメラルダが抵抗すら諦めてしまうような強大な権威を前にしても、ミーアは揺らぐことはない。
いつだって、そうなのだ。
いつだって、変わることがないのだ。
貴族の常識という鎖に縛られない自由な翼を持った人。
エメラルダは、それを常識外れと思う。
皇女らしくない、帝室の権威と伝統を踏みにじる行為だと批難する。
だけど、本当はずっと……ずっと。
――ああ、そう。そうでしたわ……。私は、ミーアさまに憧れていたのですわ……。
エメラルダは思い出した。
ミーアに憧れて、だからずっと、ミーアの隣に立つ親友になりたいと思っていたのだ。
エメラルダは知っている。自分は本当は、ミーアの親友などではない。
親友になりたいと、ずっと願っていたけれど……そうはなれなかった。
だって。ミーアのように、自由ではいられないから。
エメラルダを縛る鎖は、予想より遥かに太くて頑丈だったのだ。
それを断ち切る勇気が自分にはないことを、彼女は痛いほどによくわかっていた。
自分はきっと、ミーアの友となるには相応しくない。
そんな諦めが、いつだってエメラルダの胸にはあって……だというのに……、
「過去の盟約に縛られて初代皇帝に忠義を尽くすのではなく、親友であるわたくしとの友誼を選んでいただけないかしら?」
ミーアは軽々と踏み込んでくる。簡単に、エメラルダの常識を裏切ってしまう。
こんなにもあっさりと親友であると……、初代皇帝への忠義ではなく、自身との友誼を選べと……。
それが、エメラルダにもできるのだと、呼びかける。
どうということもないことだと、いたずらっぽい笑みさえ浮かべながら……。
でも……、
「そんなの……無理ですわ」
口から零れ落ちたのは、否定の言葉だった。
それは、彼女を縛る貴族のしきたりのせいか?
あるいは、初代皇帝の権威が彼女を屈服させたのか?
否、そうではなかった。
それらの鎖は、ミーアが手を差し伸べてくれた時に、すべて溶けて消えてしまっていた。
けれど、最後の最後に、残るものがあった。
ミーアの手を取るのをエメラルダに躊躇わせたもの、それは彼女の胸に突き刺さった小さな棘だった。
取るに足りない夢の出来事、あの日、打ちひしがれたミーアをお茶会に誘いながら、その約束を果たせなかったという悔い。
いつ、どこで、どんな風にかはわからないけれど、ミーアを裏切ってしまったという……気持ち。
決して本当にあったこととは思えないけれど、でも、胸に残る痛みは本物で。
それが、エメラルダに、ミーアの友と名乗らせることを許さない。
「私は、ミーアさま……、あなたを裏切りましたわ」
零れ落ちるは告解の言葉。
「はて? そんなこと、ございましたかしら?」
きょとんと小さく首を傾げるミーアに、エメラルダは続ける。
「ミーアさまを、お茶会にお誘いして、その約束を守ることができませんでしたわ」
自分はいったいなにを言っているんだろう……、エメラルダは思わず呆れてしまう。
夢の話をされたって、ミーアも困るだけだろうと思って……。
でも、だけど……。
「そう、ですわね……。でしたら……」
ミーアは笑わなかった。それどころか、ものすごく真面目な顔をして……、何事か考えこんでから……、
「わたくし、甘いケーキを所望いたしますわ」
口から出たのは意外な言葉。
「え?」
思わず、瞳を瞬かせたエメラルダだったが、直後に続いた言葉に息を呑んだ。
「うん、ケーキ。とっても美味しいケーキが食べたいですわ。だから……、この島から出たら、わたくしをお茶会に誘ってくださらない?」
ミーアは言ったのだ。
「そこで帝国への忠誠を誓いあうんですの」
エメラルダをまっすぐに見つめて……。
「大陸を滅ぼすための古い帝国にではなくって、すべての臣民の安寧を願い、そのために力を尽くす、そのような、新しい帝国への忠誠を」
その時、ふいにエメラルダは気づいた。
自らの頬に、すぅっと熱い雫が流れ落ちたことを。
――泣いてる? 私、どうして……? 泣くような理由なんか、どこにもございませんのに……。
それは、遠き日の約束。
果たされることなく、夢と消えた悲しい約束。
――あれは、ただの夢ですわ……。ミーアさまが知ってるはずございませんわ。でも……。
エメラルダは、ミーアを見つめた。
その顔に、なぜだろう、エメラルダは……、あの夢の中のミーアを見た気がした。
ミーアが……、あの時の約束を果たす、その機会を与えてくれているように見えて……。だから。
「はい……。ミーアさま、必ずお誘いいたしますわ。最高のお菓子職人を招いて、最高のケーキを……用意いたしますわ」
エメラルダは、差し出された手を取った。
かけがえのない親友の手を。
ちなみに…………この時、すでに時刻は夜になっている。
朝、昼、夕と食事を抜いたミーアは……、とても……とーってもお腹が空いていた。
まぁ、だから、どうということもないのだが……。