第百八話 ミーアルーツ
「不思議ですわ。これ、いったい、どうして光っているんですの?」
ミーアは足元の水を手ですくってみる。が、手のひらが光るということはなかった。
水自体が光っているのかと思ったのだが、どうやら違うようだった。
「この明かりは、なんとなく夜灯虫に似てるな。もしかすると、なにか水の中に光る生物がいるのかもしれないね」
そう言ってからアベルは、思案するように黙り込んだ。それから、わずかに緊張した声で続ける。
「ねぇ、ミーア、これは狙ってやっているんだと思うかい?」
「へ? どういうことですの?」
「ほら、シオンが言っていたじゃないか。ボクたちがいた洞窟には人の手が入っているって。この、洞窟が光る仕掛けも何者かが作ったものだとしたら……」
ミーアの脳裏に、エメラルダの話が甦ってきた。
「邪教の地下神殿……、なるほど、あの怪談話に急に現実味が出てきてしまいましたわね……」
そうは言うものの、さすがに、そんなトンデモなものが見つかるとは思っていないミーアである。むしろ、大事なのは……、
「それはそれで、考えようによっては朗報かもしれないな。人の手が入った場所なら、出入口があるということになるからね」
「ああ、確かにそうですわ。もしかしたら、この先に出口があるかもしれませんわね!」
もしもこちらでなくても逆方向にも道があったし、なんとか出口に辿り着くことができるかもしれない。
心なしか気分が軽くなったミーアは、足取り軽く進んでいく。
けれど、そんな二人の目の前に現れたものは、残念ながら出口ではなかった。
曲がりくねった隧道を抜けた先にあったのは巨大な地下空洞だったのだ。
「これ……は?」
そこは不可思議な空間だった。先ほどまでは足元にしかなかった青い光が、広い空洞の中に満ちていた。水の中で光るものが空気中に漂っているわけではない。
あちこちにある透き通った石が青い光を乱反射させて、空洞を照らし出しているのだ。
そして、その光に照らし出されるようにして、それが静かに佇んでいた。
それは……、まさに神殿だった。
まるで氷のような、半透明の石で作られた建造物。巨大な柱も、その柱に支えられた屋根も、そのすべてが透き通っていて……、外から受けた光を周囲に反射している。
まるで建物自体が輝きを放っているようにすら見えた。
それはとても幻想的で……けれど、どこか冒涜的に見える光景。美しいのだけれど、なぜだろう。ミーアはその光景に、背徳的な空気をかぎ取った。
「ほっ、ホントにありましたわ……。地下神殿。まさか、あるとは思っておりませんでしたけれど……これが、まさか、邪教団の地下神殿……なのかしら?」
「どうだろうな……こんな場所に隠されているんだから、まともなものではないだろうが……」
アベルは半ば呆気にとられたように、言葉が少なかった。
当たり前だ。このような光景、今までどこでも見たことがない。
どの時代の、どのような建築法で建てられたものなのか、まったくもって見当がつかなかった。けれども、ただ一つ、わかることは……。
「だけど……、なんとなく、あれは気味が悪いな……」
自身の心情を代弁してくれたようなアベルの言葉に、ミーアは黙って頷いた。
そうなのだ、それこそ、夢幻に出てくるほどに美しく、幻想的な建物を前にしているというのに……、ミーアが感じるのは奇妙な嫌悪だった。
あるいは、違和感といってもいいかもしれない。
神殿とは「神の栄光を顕わす」という設計思想によって建てあげられるもの。そこには調和があり、完成された美があってしかるべきである。
にもかかわらず、目の前の神殿は……どこかがズレているような、そんな感覚があった。
あるべき場所にあるべきものがなく、あるべきでないものが、そこにある。そうした小さくも奇妙な違和感が積み重なり、見ているとどこか落ち着かない気分になってくる。
「邪教徒の神殿……」
その言葉が、ここまでしっくりくる建物は、そうはなさそうだった。
「ミーア、ボクは邪教と聞くと、つい例の者たちのことを思い出してしまうよ」
「ええ、混沌の蛇ですわね。わたくしも、それを考えておりましたわ」
人の作り出した秩序を嫌い、それに反する者たち。であれば、このような、設計思想のことごとくを冒涜し、それに逆らうような建て方をしたとしても、不思議ではないのかもしれない。
「これは思わぬところで、思わぬものを見つけてしまったかもしれませんわ!」
謎に包まれた組織、混沌の蛇。
その尻尾を捕まえられる可能性が出てきたとあって、ミーアの鼻息は荒い。
「早速、入ってみましょう!」
そう言うと、ミーアはずんずん神殿の中に足を踏み入れた。
「これは……すごいですわね……」
神殿の中もまた、夢のような景色が広がっていた。
足元から、壁から、天井から、青く淡い光が降り注いでいた。それは、まるで、大地を照らす日の光に対抗するかのような、奇妙な光だった。
「なんだか、ここ、落ち着きませんわね……」
そうつぶやきつつ、ミーアは周囲に視線を走らせた。
神殿にはドアや仕切りはなく、あるのはただ、太い柱のみだった。
否……、もう一つ。もっとも奥まった場所に、それは掲げてあった。
透き通った神殿の中にあって、唯一、色を持ったもの。
灰色のそれは、岩から切り出した石板だった。
「なにか書いてあるな……」
アベルは、石板に顔を寄せたが、すぐにため息混じりに首を振った。
「だめだ。大陸共通語じゃない。ミーアは読めるかい?」
「ええ、これは、古代帝国語ですわ」
現在、ミーアが使っているのは大陸共通語である。対して、そこに書かれていたのは、はるか昔、ティアムーン帝国で使われていた言語だった。
ちなみにミーアも多少その心得がある。皇女の基礎教養というやつである。
「本当かい? さすがはミーアだ」
アベルに褒められて、ちょっぴり得意げな顔をするミーア。であったのだが……。
「ふふん、ちょちょいのちょいで読んでやりますわ」
そんな風に軽口を叩けていたのは最初だけだった。
読み進める都度、ミーアの眉間には深いしわが刻まれていった。
そこに書かれていたのは……ある男の妄念……、あるいは、呪いだった。
彼は、大切な人を理不尽に失い、心の中に底知れぬ憎悪を秘めた者だった。
この神殿を訪れた彼は、そこで、大陸を追われて身を潜めていた蛇と出会う。
人の作る秩序すべてを憎む蛇、その破滅的な考えに共感した男は、その理念を実現、あるいは、利用し世界に復讐することを望んだ。
そんな彼に蛇は言う。
大陸には、肥沃なる三日月地帯と呼ばれる祝福された土地があるのだ、と。
豊作が約束されたその地には食料が有り余っており、それによって大陸全土は安定を約束されているのだ、と。
男は知っていた。
食べる物があれば、人は、たいがいのことを許すことができる。
人が剣を取り、殺戮に駆り立てられるのは、食べる物がなくなった時であるのだ。
それゆえに、人の作りし文明のすべてを滅ぼすためには、世界を混沌に堕し復讐するためには、肥沃なる三日月地帯が邪魔だった。
いったい、どうすればいいだろう?
けれど、悩むことはなかった。
男には叡智が与えられていたからだ。
人の邪悪を読み解く、悪の叡智が。
彼は思った。
その三日月地帯を穢す思想を広めようと。
食料を生み出す農業を、蔑み憎む思想を広めようと。
彼は考えた。
思想を効率的に広めるには、どうすればいいだろう? と。
答えはすぐに出た。
思想を広めるには国を建てるのがいい。
その国を使って≪反農の思想≫を自然に、緩やかに、その地に住まう者たちに広めて……肥沃なる土地を農地以外のものへと変質させ、使えないほどに汚染させる。
そうして、彼は決意した。
肥沃なる『三日月』を『涙』で染める国を作ろう、と。
それは、ある男の妄念。あるいは……帝国を生み出した呪い。
男の名は、アレクシス。
三日月を涙で染め上げる帝国初代皇帝である。