第百七話 アンヌ、帝国の叡智(アンヌの中の……)を語る
闇に沈んだ洞窟。静寂に包まれたその場所に、ぐず、ぐず、と鼻を鳴らす音が響いていた。
「……ああ、私、死ぬのかしら……?」
ぼんやりと光るペンダントを手に、エメラルダは泣きべそをかいていた。
岩に寄りかかり、足を投げ出した状態で、ぐずぐずと鼻を鳴らす。
ちょっぴり、右足の位置を変えようとするも、直後に走った痛みに、再び足から力を抜く。
「うう、すごく、痛い……痛い。えぐっ。うう、これは、きっと骨が折れたっていう状態ですわ。そうに違いありませんわ。このまま、動けなくって、ここで野垂れ死ぬんですわ。ううう」
ずずーんっと暗い雰囲気をまとったエメラルダは、普段の五割り増しぐらい面倒くさそうな感じだった。
そんな、涙で歪んだ彼女の視界に、不意に、赤いボーっとした光が入ってきた。
「……っ!?」
思わず息を呑むエメラルダ。
脳裏に思い浮かぶのは、自身の怪談話。無人島をさまよう邪教徒の幽霊のことだった。
けれど、すぐに思い直す。そんなものいるはずがない。
そもそも、その赤い光が来るのは洞窟の入り口の方なのだ。
であるならば……。
「ニーナっ!? 来てくれたんですのっ!?」
次に浮かぶのは、自身の忠実なる従者の姿だ。
その想像は、すぐに確信へと変わる。
「そうですわ。私がこのようなところで朽ち果てるなどありえないこと。きっとニー……じゃない、メイドが来てくれたに違いありませんわ!」
そうして、エメラルダは、その明かりが近づいてくるのを待った。
やがて……、
「あっ、エメラルダさま? ご無事ですか?」
現れたのは、赤い髪を両側で結んだメイド、アンヌだった。
「あら、あなたはアン……じゃない。ミーアさまのメイド」
慣れ親しんだニーナではなかったことで、ちょっぴりガッカリするエメラルダだったが、それでも助けが来た安堵から、ついついニコニコしてしまう。
調子に乗って立ち上がった瞬間、痛みが走って、小さく悲鳴を上げる。
「? エメラルダさま、どこかお怪我を?」
「あ、ええ。そうなんですの。実は、そこの坂を滑り落ちる時に、足首をケガしてしまいましたの。恐らく、骨が折れていると思いますわ」
「大変っ! そこにお座りください。足を伸ばして」
「仕方ありませんわね……。ミーアさまに免じて、特別に言うとおりにして差し上げますわ」
エメラルダは言われた通りに素直に座り、足を伸ばす。と、アンヌはその足元にしゃがみ込んだ。
「あら、感心。あなた、手当てができますの?」
「弟が一度だけ骨を折ったことがあります」
「まぁ、それでは素人なのですわね。やはり、平民に過度な期待はできませんわね」
などと言いつつ、ちょっぴり、心が落ち着くのをエメラルダは感じる。
心なしか痛みも少しだけ引いてきたように感じる。
「痛みますか?」
「ええ、もう、立っていられないぐらい痛いですわ。絶対、折れてるに違いありませんわ」
「失礼します」
アンヌは、さらに、エメラルダの足首に手を当てる。
それから、自らのスカートの裾を破ると、エメラルダの足首を固定し始めた。
「ど、どうですの? や、やっぱり折れてる?」
「いえ、骨折はしていないみたいです。痣にはなっていますけど……。でも、あまり動かさないほうがいいですね」
「そう、ですの……」
アンヌの言葉に、エメラルダは、さらに心がスッと軽くなるのを感じた。
足の痛みまでも、さらにさらに軽くなってきたように感じる。今なら歩けそうだ。
……単純な人なのである。
「ところで、どうしてお一人でこんなところにいらしたんですか? 洞窟の奥は危ないってキースウッドさんが言ってましたよね?」
「あら? 平民ごときが私に差し出口を? あなた、ミーアさまのお付きだからって、少し調子に乗っているのではなくって?」
わずかばかり口調に苛立ちを乗せる。いつもであれば、これで、ニーナやほかのメイドたちは口をつぐんでしまう。
けれど、アンヌは黙らなかった。
「私は、あなたがどうなろうと知りません。でも、ミーアさまに迷惑をかけるのはやめてください。ミーアさまは、きっとあなたのこと、心配しています。あなたが勝手なことをしてなにかあったら、ミーアさまが悲しみます。どれだけ迷惑をかけたか、わからないんですか?」
「なっ!?」
返ってきた強い反論に、エメラルダは言葉を呑み込む。けれど、次の瞬間、一気に頭に血が上った。
「あ、あなた……、おぼえてなさい! そのようなこと私に言って……、ミーアさまに報告して差し上げますわ。それに、皇帝陛下にも進言して……」
「そういうことは、ここから無事に出られたらにしてください」
「……へ?」
エメラルダは、瞳をぱちくりと瞬かせた。
「出られたらって……、出られますわよね? だって、こうして助けが来ているわけで」
「洞窟が崩れました。私が来た道は、残念ですが使えません。この先に出口があればいいんですけど……」
「なっ、そ、そんな! あ、あなた、ひどいですわよ? こんなに私を喜ばせてから突き落とすなんて、ひどすぎますわ!」
涙目になって抗議するエメラルダを、アンヌはキッとにらみつける。
ひぃっと、息を呑むエメラルダに、アンヌは言った。
「エメラルダさま、ここから生きて出るには、力を合わせる必要があります。だから、ここから出るまでは勝手なことをしないでください」
「……うぅ、そんなに強い口調で言わなくっても……。わ、わかりましたわ。あなたの言うとおりにいたしますわ」
しぶしぶ頷くエメラルダに、アンヌは言った。
「では、私が脱出口を探してきますから、ここでお待ちください。必ず迎えに来ますから」
そうして、アンヌは踵を返した。
「ちょっ、待って。置いて行かないでくださいまし、あっ、アンヌさん!」
「え……?」
呼びかけにアンヌが足を止めた。それから、マジマジとエメラルダの顔を見つめてくる。
若干、気まずくて視線を逸らすエメラルダ。構わず、アンヌは口を開いた。
「エメラルダさま、私の名前、おぼえてたんですか?」
「当り前ですわ。もしかして、あなた、私を馬鹿だと思っておりますわね?」
「…………」
「ちょっ、なんですのっ!? 今の沈黙は……」
「あ、いえ。馬鹿とは思ってませんけど、でも、名前をおぼえられているのは意外でした。てっきり、そういうのおぼえない人なんだと……」
「もちろん、おぼえておりますわ。ニーナも、アンヌさんも、キースウッドさんも。そのぐらいの名前がおぼえられないと、本気で思われるのは少しばかり心外ですわ」
「じゃあ、どうして、おぼえてないふりなんかするんですか? 私はともかく、ニーナさんが可哀そうです」
アンヌの抗議に、エメラルダは胸を張って答えた。
「だって、それが貴族というものですもの」
エメラルダはそう教わった。
『貴族たる者、平民の名などおぼえる者ではない。いちいち、有象無象の名をおぼえているなど、労力の無駄だし、変に情が移れば判断を誤ることだとてある。皇帝陛下の手足として、国を治める我らは、いついかなる時も冷静で合理的な判断をしなければならぬ』
『貴族たる者、先祖への感謝を忘れず、誇り高き歴史と伝統を重んじ、皇帝陛下に忠を尽くすように』
『星持ち公爵令嬢のお前に、最上級のものが用意されるのは当然のことである。いちいち、感謝を口にする必要などなし。当然のものを、当たり前のように受け取れ』
父の教えに、エメラルダは忠実だった。
それこそが、自身の生きる道なのだと彼女は疑ったことがなかった。
だからこそ……、エメラルダにはミーアのありようが信じられなかった。
「むしろ、おかしいのはミーアさまの方ですわ。我々、貴族の伝統をどうお考えなのかしら?」
「でも、だからこそ、私はミーアさまに忠義をお捧げしています」
ふいに、聞こえてきたのは強い声。エメラルダは声の主の方を見た。
「ミーアさまは、私の名前を呼んでくれます。私に優しくして、私の家族をも気遣ってくださります。だから、私はミーアさまのためならば命だって惜しみません。私が死んだら、ミーアさまはきっと泣いてくれます。そんなミーアさまだから、私は命を惜しまないし、ミーアさまを泣かさないために、私はこんなところで死ぬわけにはいかないんです」
その力強い宣言に、エメラルダは思わず揺らいだ。
今、目の前にいるメイドは、自身の命を惜しまないという。
なるほど、それは、大した忠誠心だが、その程度の者ならば自分の周りにもいる……。
そう豪語したかったけれど……、でも、どうしても思ってしまう。
本当にそうだろうか、と。
ニーナは、護衛の者たちは、はたして、この目の前のメイドと同じように自分のために命を捨ててくれるだろうか?
あまつさえ、彼女は言ったのだ。
ミーアを泣かせないために、生きるのだ、と。
絶望に膝を屈しても仕方ないような、この暗闇の中、松明のごとく消えることのない決意の炎。
自分の従者たちは、彼女のように考えてくれるだろうか?
自分は、彼女の中のミーアのような存在に、なれているだろうか?
――私が死んだら、ニーナは悲しんでくれるかしら?
きっと悲しんでくれないだろうな、となんとなく思う。けれど、それ以上に怖いのは、
――私は、ニーナが死んだら、悲しまないでいることができるかしら? ニーナの命を犠牲にせざるを得ない時に、私はその判断ができるかしら?
心に生まれたのは、深刻な疑問だ。
エメラルダがしようとしていたのは、目を背けること。
貴族の伝統を言い訳に、自分の心を鈍感にして、悲しまずに済むようにする、ただの逃避……。
そんなエメラルダにミーアの忠臣は叩きつける。
「名前を呼ばずに、相手を一人の人として見ずにいること、それで切り捨てやすくするというのは甘えです。ミーアさまは誰一人切り捨てたくない。切り捨てたら悲しい。だから、誰も切り捨てなくてもいいように、努力して行動されます。だから、あの方は叡智と呼ばれ、みんなから慕われるんです」
「叡智……」
ふいに、思い出される感情があった。
エメラルダは、ミーアのありようが信じられなくって、その行動は常識外れの、とんでもない行いに見えて……。だけど……。だけど……。
「エメラルダさま。置いて行かれたくないのでしたら一緒に来ていただくことしかできません。私は足を止めることはしません。私についてきていただけますか?」
思い出に沈みかけたエメラルダを、アンヌの声が引き留めた。
そうだ、今は考え込んでいる時ではない。
小さく頷くと、エメラルダはゆっくりと立ち上がった。
本日、活動報告を更新いたしました。
お時間の許される方はチラリと覗いて行っていただけると嬉しいです!