第百三話 アンヌの決意
「ああ、お仕事、終わっちゃった……」
ニーナに指示されていた野草の下処理をすべて終えてしまったアンヌは、深々とため息を吐いた。
まさか、こんな風に島に取り残されるなんて想像もしていなかったから、なにをしていいのか、いまいち定まらないのだ。
「あーあ、ミーアさまがいらっしゃれば、いろいろとしたいことはあるのに……」
こんな場所だ。髪や肌の状態は常にチェックして、早め早めにケアしていきたいところである。アンヌは、ミーアの美しさの維持に余念がないのだ。
「それにしても、エメラルダさまは、どこに行かれてしまったんだろう?」
アンヌ自身は別にエメラルダのことは好きではない。だからと言って、死んでしまえとか、ケガをしろとは思わない。無事で見つかってくれればいいな、とごく自然に思っていた。
ミーアがなんだかんだ言いつつも友だち扱いしているから、なおのことそう思う。
だからこそ、エメラルダの行方は気になった。
「……本当に森の中に行ったのかな……」
実は、アンヌは先ほどからずっと気になっていることがあった。それは、
「エメラルダさまが……、一人でこの洞窟を出て行かれるかしら?」
そのことだった。
みなはごく当たり前のように、エメラルダが洞窟から出て行ったと言っていたけれど……。
「一人で森の中を歩くような勇気があるようには見えなかったけどな……」
アンヌは、ぽつんと、そんなことをつぶやく。
無茶をするにも、それなりに勇気がいるものなのだ。もしも、いじけて出ていくとしても、暗い夜の森を一人で歩くのは相当な勇気がいることである。
はたして、それがあのエメラルダという人物に可能なことだろうか?
「ミーアさまだったらまだしも……、あの方がそんなことをするとは思えない」
ミーアは怖がりだが、必要とあらば闇の中にだって踏み出す勇気を持っている……。
そうアンヌは信じている。現実はどうかは別として……。
けれど、エメラルダにそこまでの勇気があるとは思えない。だとすると……、なぜ、エメラルダの姿が洞窟内になかったのか?
もしも、外に出ていないとしたら、その行先は……。
「まだ、洞窟の中にいる?」
最初に思ったのが、洞窟のどこかに身を潜めて、みなが慌てるのをこっそりと眺めているという行動だった。
それは、実にエメラルダというお貴族さまに合っているような感じがして、アンヌは少しだけ腹を立てながら洞窟の中を探してみた。
けれど……、
「やっぱり、いないよね……」
入り口付近の物陰をいかに探しても、エメラルダの姿はなかった。
当たり前だ。広くなっているといっても、身を潜められる場所は少ない。
とすれば、やはり外に出て行ったのか、もしくは……。
「洞窟の深いところに行って、戻ってこれなくなった?」
洞窟から離れて暗い森を歩くよりは、みなが寝ている洞窟の奥の方に行く方があり得るような気がした。
「行くなって言われてたけど……、ダメって言われてることをやりたがるのは大貴族さまっぽいし……」
貴族や王族の中にも立派な人がいることを、アンヌはよく知っている。
けれども、やっぱり貴族さまといえば、高慢ちきで他人の進言をあまり聞かない人間という印象がぬぐえない。
一人で、洞窟の奥を探検してみようという無謀な行いもまた、エメラルダのイメージに合致する。
「いずれにせよ、外はミーアさまたちが探しているんだから……」
ここで一人で待機しているのも立派な役割だ。けれど、なにもせず、ここで待っていることは耐えきれなかった。みんなが島中を歩き回って捜索しているのだから、自分もなにかの役に立ちたかったのだ。
しばしの逡巡、その後、アンヌは決意する。
「私だけがここで休んでるわけにはいかない」
それから、アンヌは念のために地面に文字を残した。
万が一エメラルダが戻ってきた時のために。そして、ミーアたちが戻ってきた時のために。
「あとは、洞窟の奥まで行くなら、明かりが必要かな……」
アンヌは浜辺に出て狼煙のところまで行く。鍋を火にかけるために使った太めの枝、その余りの枝を使わせてもらうことにした。
三、四本の枝を束ね、その先端に枯葉や、樹脂の多そうな細い枝を押し込み、森の中で見つけた太めの蔦でまとめる。釣り糸には太すぎると思われた蔦だが、松明を作るには丈夫でよさそうだった。
そうして出来上がったのは即席の松明だ。
「これに火をつければ……」
最低限、明かりに使えればいいと思っていたけれど、なんとかなりそうだ。
そう思ったのだけど……。
いざ、洞窟の奥に入ってみると、その明かりはいかにも心細かった。
ゆらゆらと揺らめく赤い炎は、当然のことながら洞窟の闇をすべて払拭してはくれない。それでも、アンヌは歩き出した。
「ミーアさまのお友だちを探すためだもの……」
そう自分を励まして。
洞窟の中は曲がりくねり、時に上り、時に下り。
屈まなければならなくなったと思えば、ジャンプしても天井に届かないようなところもあって。
その内に、天井から氷柱のように、鍾乳石が垂れ下がっている場所に出た。
進む先の道は狭くなっており、先が見通せなくなっていた。
「この先は、下ってるのか……。降りたら上がってこられない、よね……」
道は下り坂になっており、しかも、かなり下まで降りているのか、行く先は闇に沈み込んでいた。
ここまでか……と戻ろうとした矢先、視界の外れに映ったものに、アンヌは違和感を覚えた。
それは、半ばほどで折れた鍾乳石だった。坂の直前、ちょうど手を伸ばせば届くような位置にある。
「これ……」
アンヌは顔を寄せ、折れた部分を観察してみる。
周りには似たような岩があるにも拘わらず、その一本だけがポッキリと折れている。しかも、地面には、その折れた先は見当たらない。
「ここ、ちょうど掴まるのにいい位置だよね……。掴まって、それで……」
身を乗り出して、坂の下を覗く……。だとすると……、
「大変、もしも……ここから落ちたんだとしたら、早く、みんなに知らせなきゃ」
そう思い、戻ろうとした、まさにその時だった。
突如として、ガラガラという石が崩れ落ちる音が聞こえた。
「きゃあっ!」
悲鳴を上げつつ、アンヌはその場にしゃがみ込む。両腕で頭を守るようにして、身を固くすることしばし……。
顔を上げたアンヌは、口元を袖口で覆いつつ松明を目の前に掲げる。っと、先ほどまで歩いてきた道が、石の壁に塞がれていた。
「そんなっ……」
思わず、息を呑む。
脳裏にいくつもの思いが駆け巡る。
この洞窟から出られないかもしれない。
ここで死んでしまうかもしれない。
家族ともう二度と会えないかもしれない。
でも、それ以上に……。
――ミーアさまに、もうお仕えできなくなるかもしれない……。まだ、受けた恩を一つも返してないのに……。
ジワリ、と目元が熱くなり、視界がぐにゃりと歪む。
「ミーアさま……」
小さくすがるように、助けを求めるように、自らの主の名を呼ぶ。
「……ミーアさま……」
もう一度……、震える声で、そうつぶやいて……。
アンヌは、大きく息を吐いた。
「落ち着かなきゃ……。私は、ミーアさまの専属メイドなんだから……」
ミーアは言ってくれたのだ。自分のことを腹心であると。
ならば、こんなところで諦めるわけにはいかない。
こんなところで膝を屈して、泣き崩れてしまうような者は……、帝国の叡智の右腕に相応しくない。
「ううん、ミーアさまの頑張りに……相応しくない」
アンヌは、改めて松明で道を照らす。
その光の向かう先は戻る道ではなく、進む道。
下り坂の方だった。
「もともと、こちらへ行くつもりだったのだから……、進めばいい」
泣いて諦めるにはまだ早い。
それをするのは、この命が尽きる時でいい。
「ミーアさま……必ず、また……」
小さくつぶやき、アンヌは下り坂を滑り降りた。
アンヌは知らない。
その岩崩の原因を作ったのは、尊敬する自らの主であるということを。