第九十三話 澄んだ泉の名探偵ミーア
そよそよと、澄んだ水が流れる音が響いていた。
黒々とした森の一角。生き生きと繁茂した木々が、ふいに途切れた広場のような空間。
そこに美しい泉があった。
小高い岩壁から落ちる小さな滝、絶え間なく注がれる水が泉の表面を小さく揺らしていた。
泉はセントノエルの大浴場の二倍以上の広さがあるだろうか……、周りには小さな花が生き生きと咲き誇っていた。
そこはさながら、おとぎ話に出てくるような幻想的な場所。泉の女神が住まうような美しいな場所だった。
そんな泉のほとりには清らかな乙女の姿があった。その身を水浴のための愛らしい衣に包んだ少女は、水辺にそっとつま先をつける。
裸足に感じる水の冷たさに小さく悲鳴を上げて、それでも乙女は、覚悟を決めたように手のひらで水をすくうと、か細き肢体へとかけた。
輝くように艶やかな肌の上を、玉になった水がこぼれ落ちていく。
……とまぁ、一見、美少女キャラの登場シーンのような感じではあるが……誤解のないように言っておくとミーアの登場シーンである。
ちなみに、水の冷たさに驚いた時の悲鳴も「きゃっ!」などという可愛らしいものではなく「ふひゃあっ!?」という、ちょっぴりヘンテコなものだった。
まぁ、だからどうしたということでもないのだが……。
そもそも、なぜ、ミーアが泉に来ているかというと、すべてはアンヌの発案によるものだった。
「水着を着て、泉で水浴びさせていただくのは、どうでしょうか?」
そんなアンヌの提案は、エメラルダからも支持を得た。
豪雨の中、ぬかるんだ道を歩いたせいで、服はもとより体も泥まみれだったのだ。
正直なところ、地下牢で鍛えられたミーアとしては、一日や二日、水浴びしなくっても特に問題ないと思ってしまうのだが……。
「ああ、申し訳ありません、ミーアさま……。御髪の泥が、上手く拭き取れません。うう、ミーアさまの美しい御髪が……」
などと、悲嘆に暮れるアンヌを見ていると、早めに水浴びに行ったほうがいいかしら、などと思ってしまったわけである。
幸いなことに、エメラルダの用意した水着もある。
外で裸身を晒すことには、さすがに少し抵抗があるミーアも、これならば問題なく水浴びができるだろう。
――とは思いましたけれど……、やっぱり、これ、ちょっとだけ恥ずかしいですわね。
そうして、ミーアはふと横を見た。
そこには、すまし顔で水浴びをするエメラルダの姿があった。ファサっと髪をかき上げながら偉そうな笑みを浮かべる。ちなみに、エメラルダの方もミーアとお揃いの水着を着ていた。こちらはニーナがいざという時のために、肌身離さず持っていたため、吹き飛ばされずに済んだのだとか……。
それを聞いた時には「どういうことなのか?」と首をひねってしまったミーアだったが、エメラルダは、特に気にした様子はない。
「エメラルダお嬢さまは、ミーア姫殿下とお揃いの水着で遊ぶことを、大変楽しみにしておられましたから……。何かあっては大変と、私の懐で温めておきました」
シレッとした顔で言うニーナであった。
――さすがにエメラルダさんのメイドというだけあって、相当な変わり者ですわね……。
などと、ミーアが思い出していると、ふいにエメラルダの上機嫌な声が聞こえてきた。
「ふふん、平民にしては良い考えでしたわね、ミーアさまのメイド」
――ああ、もう、また偉そうに……。まったく、エメラルダさんもいい加減にしないと大変なことに……あら?
ふいに……ミーアの視線が、ある一点に釘付けになった。
それは……そう、もう言うまでもなく……、エメラルダの露出したお腹に、であった。
ほどよく水泳で引き締まったお腹である。
美しいラインを描くお腹である!
ミーアの理想とするべきお腹が、そこにあったのだ!
「あ……ぁっ」
衝撃に、口からうめき声が漏れる。
それから自らのお腹を撫でてみるミーア。そこは確かに春休み前ぐらいまでは復帰している……、触ってみた感じ、ふにょふにょはしていない。でも、ふにょ……ぐらいはしている!
もう一度、エメラルダのお腹を見て……ミーアは、その事実を認めざるを得なかった。すなわち、
――負けた……、わたくし、エメラルダさんに負けておりますわ!
「では、ミーアさま、御髪を先に洗わせていただきますね」
「え、ええ……お願いいたしますわ……」
敗北感に打ちひしがれて、力なく答えるミーアであったが……、ふと、アンヌの言葉に違和感を覚えた。
「……先に、とおっしゃいまして?」
引っかかったのは、その一言だった。
ミーアは、エメラルダや他の大貴族とは違い、自分の体は自分で洗える。このような状況で、アンヌにすべてやってもらうということは、ありえない。
それを知らないアンヌではないはずだ。
だから、アンヌが「先に」と言ったということは「髪の後で体を洗いますね」ということではない。その後で他のナニカを洗うということだ。
さらに言えば、アンヌ自身が水浴びをするということでも、恐らくない。アンヌは口に出さずとも自分自身のことを後にするだろう。
――では、髪の後になにを洗うと言いますの……?
そうして……周囲に視線を走らせたミーアはある物を見つけて、戦慄する!
それは……そう、自らが脱いだ服。泥で汚れた服である。
嵐の過ぎ去った後の空は、晴れ渡っていた。日の光は強い。ここで洗って干しておけば、そう時間が経たずに乾くはずである。
だから……ミーアの髪を洗った後、アンヌが洗うのは……ミーアの着ていた服である。
それはいい。別に構わない。
水浴びをした後で、あの泥にまみれた服を着たいとはミーアも思わないからだ。
けれど、問題なのは……、それが乾くまで、ここで待つことになるかどうか、ということだ……。
恐らく、アンヌは言うだろう。
「服を洗って乾かしますから、ミーアさまはお先に王子殿下たちのところに戻っていてください」
恐らく、エメラルダは応じるだろう。
「そうですわ。洗濯など従者に任せるのが当然のこと。高貴なる私たちは、先に王子殿下たちのところに、戻っているべきですわ」
などと! 余計なことを!!
加えて言うならば、すべての作業が終わるまで、すなわち服が乾いて着られるようになるまでここにいては、さすがに待たせすぎになってしまうということは、ミーア自身も同意することだった。
――恐らく、この島でとれる食糧について最も詳しいのはこのわたくしのはず……。そのわたくしが、ここで時間をつぶしてしまえば、今夜の食糧事情に深刻なダメージを与えてしまいますわ!
そうして、ミーアは泣く泣くエメラルダとともに戻ることになるのだ。お腹の露出した水着姿でだ!
公開処刑もいいところである!
自らの頭脳がはじき出した恐怖の未来予想図を前に、ミーアは急ぎ、行動を開始する。
「そっ、そうですわ! アンヌ。せっかくですから、わたくしの服をとってくださらないかしら?」
「へ? なぜですか?」
「あなたに髪を洗ってもらっている間に、服を洗っておこうかと思って……」
「なっ、そんな……。それは、私の仕事です。ミーアさまのお手を煩わせるなんて……」
「そうですわ。ミーアさま。そのようなことは、メイドに任せればよろしいのに」
横から口を挟んでくるエメラルダ。その引き締まったお腹に、微妙にイラっとするミーア。
ふん、っと鼻を鳴らしてから、
「なにを言っておりますの。メイドだ主だと言っている時ではございませんでしょう? できることはしっかりとやるべきですわ」
それから、アンヌの方を見る。
「アンヌ、あなたはあなたの仕事をしていただきたいですわ。丁寧に、綺麗に洗ってくださいませね」
そう言って、ミーアは自らの服を洗い出した。
――アンヌが髪を洗ってくれている間に、わたくしは服を洗う。そうして、干してしまいましょう。そうすれば、体を洗い終わる頃には、きっと服も乾いておりますわ! 急いで洗って、乾かして……、着て戻らなければなりませんわ!
ミーアはごしごし、ごしごし……と、服を洗う手を動かし続けた。