第九十一話 一粒の麦、一枚のクッキー
幸いなことに、嵐は翌日には過ぎ去っていた。
洞窟の中で、ミーアが石の数を数えつつ、ぽけーっとしている間に通り過ぎていたのだ。
風が弱まったのを確認すると、シオンの命を受けたキースウッドがすぐさま周辺の探索に出かけた。その際、サバイバル巧者なミーアから、
「キースウッドさん、どこかに湧き水か小川がないか、探してきていただけるかしら?」
という追加注文が入った。
飲み水の確保は、サバイバルの基本中の基本である。
一人で森に潜み、革命軍からも逃げられるよう、知識収集に余念のなかったミーアに死角はない!
ということで、洞窟を離れ、しばらくして戻ってきたキースウッドは、
「とりあえず用心するに越したことはないでしょうが、危険な動物の痕跡は発見できませんでした。せいぜい、ウサギがいるぐらいで……」
「ほぅ……! ウサギ……」
ミーアの瞳が、ぎらりと光った。昨日は食事抜きだったため、非常に腹ペコ猛獣なミーアである。ウサギの命は風前の灯火だ。
「それと、幕屋は一つだけ残っていましたが、中がどうなってるかはわかりません。ご婦人方の幕屋でしたので、中は確認できませんでした。それと、森の中を少し行ったところに水源地を確認。小さな泉です」
「そうか、ご苦労、キースウッド。相変わらず仕事が早いな」
シオンの労いに、キースウッドは肩をすくめた。
「まぁ、いろいろできないとシオン殿下の従者なんかやっていられませんから」
相も変わらず、苦労人である。
とりあえず、当座の拠点は洞窟にするとして、急いでするべきは幕屋の中に残っている道具の回収だ。
上手くすれば食料が残っているかもしれないと思ってのことだったが……。残念ながら、そうそう都合よくはいかなかった。
傾き、倒れかけの幕屋の中は風雨にさらされてボロボロだった。
四大公爵の一角、グリーンムーン家が威信をかけて用意した素晴らしい調度品は、泥まみれで、破壊しつくされていた。
そして、食料品なども見当たらない。
「まぁ、わたくしたちが寝るための幕屋でしたしね……」
さらに、もともと大部分の食料はエメラルドスター号の方にあり、こちらに運び込まれていたのはわずかだったのだ。
「食べられるものなどあるはずが……あ、そうですわ」
ミーアは、ふと思い出して自らの私物を探した。
着替えのドレスなどは旅行鞄の蓋が開いてしまったために飛ばされてしまっていたが、鞄の片隅に括り付けられていた小さな木箱をミーアは目ざとく見つけだした。
それは、ミーアが趣味で持ち込んでいたクッキーだった。
「無人島とはいえ、寝る前に甘いものは必須ですわ!」
との固い信念のもと、ミーアが鞄の中に放り込んだものである。
中を確認すると、大判のクッキーが全部で十枚入っていた。
「ああ……無事でなによりですわ……」
じわり、と瞳に涙を浮かべつつ木箱を取り出すと、さっそく一枚取り出……そうとしてやめる。
寸でのところで、はたと思ったのだ。
――これは、みなの前できちんと平等に分けた方がいいような気がいたしますわ。
そう、ミーアは知っているのだ。
食べ物の恨みはギロチンに直結するのだ、ということを。
クッキー一枚を先に食べてしまったことで、恨まれてギロチンにかけられる可能性だってゼロではないかもしれない。巨大なイチゴケーキを丸ごと、しかもイチゴも全部食べたというのであれば、それも致し方ないかもしれない。
されど、クッキー一枚を食べてギロチンにかけられるというのは、割に合わない。
そんなわけで、ミーアは満身の自制心を振り絞り、食欲との格闘を開始する。
ふ、ふ、ふー、ふ、ふ、ふー。と自分を鎮めるように、深く息を吐く。その様は、さながら、獲物を前にした猛獣のごとく。
それでも、なんとか自身の欲望を押さえ込んだミーアは、クッキーの木箱を持って、みなの下に戻った。
「よくこんなものを持ち込んでいましたね、ミーア姫殿下」
感心した様子のキースウッドに、ミーアは得意げに鼻を鳴らす。
「備えあれば憂いなし、ですわ。まぁ、わたくしにかかればこのぐらい、当然のことですわ」
「それはよろしいのですけれど、なぜ、平民にまで当たり前にクッキーを与えるんですの? 納得いきませんわ」
などと、不満顔なのはエメラルダである。
彼女の考え方は貴族としてはごく一般的なものであるのだが……。
――エメラルダさんは、根本的なことが分かっておりませんわね。このクッキーが何を意味しているのか……。
ミーアは、ため息まじりに彼女を見つめていた。
なるほど、確かにクッキーを多めに食べれば、お腹はその分、満ちることになるだろう。
されど、逆に言ってしまえばクッキー一枚を、ただ自分で食べてしまっては、クッキー一枚の分、お腹が満ちるだけなのである。
それだけなのだ。
逆に、ここでみなにクッキーを分け与えればどうなるだろうか?
きっと大きな恩義を感じてくれるのではあるまいか?
これは種蒔きなのだ。
一粒の麦が死ななければ、一粒のままであるのと同じように、一枚のクッキーは食べてしまえば、一枚のクッキーでしかない。けれど、それを種として蒔けば、いずれ大きな見返りが返ってくるかもしれない。
――今は味方ですけれど、この先、キースウッドにしても、シオンにしても、なにかの都合で敵に回ることが絶対にないなんて言えないはずですわ。
例えば、どこかの巨大な赤い河の上。急造の水軍を率いて大敗を喫した場合、逃げ延びた先にキースウッドが立っているとして……。追い詰められた時にミーアは言うのだ。
「あの日……クッキー、あげたじゃない?」と。
そうして、逃がしてもらえればしめたもの。後は国に逃げ帰り態勢を立て直すことだってできるかもしれない。
とまぁ……、どこかで聞いたことのあるおとぎ話を連想したミーアであるのだが、ともかく、他人にクッキー一枚で恩を売れるのであれば、それは大変コスパが良いことなのだ。
さらに言うならば、そういった計算をなくしても、クッキーを従者に分けないという選択はミーアの中にはなかった。
アンヌにあげるのは当然のことだ。
また、キースウッドにあげなければ、シオンの怒りを買って怖い。それにキースウッドを元気にしておくと、場合によってはクッキーがウサギ鍋になって、返ってくるかもしれない。ミーアは未来のウサギ鍋のために、クッキー一枚を投資したのだ。
そして、ニーナに関しては……、ぶっちゃけ空腹で倒れられると、エメラルダが面倒くさそうだし……。
ということで、今は全員の健康状態維持を優先したいミーアであった。
甘いクッキーは栄養たっぷりで、それだけで、一行に笑顔が戻ったようだった。
ちなみにミーア含めて七枚を消費し、残りも割って分配してしまった。
――下手にとっておいて、奪い合いにでもなったら、大変ですわ。食欲は人を変えてしまうものですもの……。
腹ペコ猛獣ミーアは、その危険性をきちんと認識していたのだ。
お腹に入れてしまえば奪い合いようがない。ミーアなりの危機回避術である。
さて、その後も幕屋を物色した一行だったが、ほかに発見できたものといえば、あまり見ないように、と鞄の底の方にしまい込んでいた……、
「ああ、水着……。それもエメラルダさんが用意したいかがわしい方ですわ……。これは、使えませんわね……」
ぽーいっと捨てようとしたミーアだったが……、
「あっ、ミーアさま、少し待ってください」
それを見たアンヌが、慌てて水着をキャッチした。
まじまじとそれを検分してから、アンヌはわずかに瞳を見開いた。
「これ……使えます、ミーアさま」