第八十七話 エメラルダ、やらかす
その日、ミーアは眠れぬ夜を過ごすことになった。
即席の幕屋の中……、バタバタと布が煽られる音、ガサガサ、葉っぱがこすれる音。
その中にも、時折、ひょおおおおっと悲鳴のような音が鳴り響いて……。ついつい怖い想像が頭を駆け巡って、ミーアは寝袋に入ってから、なんと一時間近くも、ゴロゴロ寝返りを打っていたのだ。
ちなみに船旅の疲れもあるからということで、今日のミーアは普段より一時間以上早く寝袋に入っていたのだが。
……まぁ、それはさておき、眠れぬ一夜を過ごしたミーアは、翌日、激しい風音で目を覚ました。
バサバサと幕屋が軋む音に、ミーアは思わず飛び起きた。
「なっ、なんですの、これは……。いったいなにが!?」
辺りをキョロキョロ見回すと、すでにエメラルダとニーナの姿はなく、アンヌが一人、ミーアの目覚めを待っていた。
……ちなみに、ミーアが起きる割と前から風はものすごい音を立てていた。
ということで、ミーア以外のメンバーはみな目を覚ましていたのだが……、すさまじい風音の中でもスヤスヤ、気持ちよさそうに寝るミーアを起こさずにおいてくれたのだ。
ミーアの周りは優しい人で満ちていた。
「おはようございます。ミーアさま。早々に大変申し訳ないのですが、何事か異変が起きたようです。すぐにお着替えを済ませてしまいましょう」
「ええ、わかりましたわ。よろしくお願いしますわね」
ということで、アンヌに手伝ってもらい、素早く着替えを済ませたミーアは幕屋の外に出て……、瞬間、ぶわわっと風に煽られて、危うくすっ転びそうになった。
寸でのところをアンヌに支えてもらい、なんとか体勢を立て直す。
「すごい風ですわね。これはいったい……?」
ミーアたちが一夜を過ごした幕屋は、浜辺から少し離れた高台に設置されていた。
近くには大きな木が何本も生えていて、そこに括り付けるような形で設置したのだが……。その、お城の柱にも使えそうな太い木が、ぎし、ぎしと軋んでいた。
空を見上げれば、灰色の雲がものすごいスピードで流されていく。
雨こそ降ってはいないものの、遠くの空は時折、白く瞬いていて……、なんとも不穏な雰囲気を醸し出していた。
「大変でございますわ! ミーアさま!」
と、そこに血相を変えたエメラルダが飛んできた。
「まぁ、どうしましたの? そんなに慌てて……」
余裕をもってエメラルダを迎えたミーアだったが、彼女の答えに、一瞬、呆然としてしまう。
「ありませんの……。エメラルドスター号が」
「…………はぇ?」
エメラルダの後について、浜辺へと向かったミーアは、あんぐりと口を開けた。
浜辺の様子は、昨日とは一変していた。荒々しく波が打ち付ける砂浜、その面積は昨日の三分の一もない。
そして、問題のエメラルドスター号がいるはずの沖合からは、その姿は忽然と消えていた。
「もしや、海賊にでも襲われたんじゃ……」
エメラルダは蒼白な顔でつぶやく。けれど、
「いや、恐らくは、この風を避けるためにどこかの島陰に避難したと考えるべきでしょう」
キースウッドの冷静な声が、エメラルダの危惧を否定する。
それから、キースウッドは空を見上げた。その視線の先には、黒い雲が渦巻いている。
「昨日から、少し心配していたのですが……嵐が来るようですね」
「ともかく、ここにいるのは少し危険だな。どこかに雨風を防げる場所を探してみよう」
シオンの言葉に、キースウッドとアベルが頷く。
「エメラルダ嬢、どこか、この島で安全な場所はあるか? 洞窟でもあればいいのだが……」
「え、あ、いえ、その……、私もこの浜辺しか知りませんので」
「なるほど。つまり、島の奥に何があるのかは、わからないか」
「シオン殿下、ミーア姫殿下かエメラルダさまの護衛をお借りして、斥候に出てもらうのはいかがでしょうか? あるいは、私がそれをしてもかまいませんが」
「いや、今はバラバラになるのは危険だろう。動くならばみなで一斉に、だ」
ふと、そこで、シオンが辺りを見回した。
「というか、それ以前に護衛の者の姿が見当たらないが……、ミーア、君の専属近衛隊の者はどこに行かせているんだ?」
それで、ミーアもようやく気付く。
いつもそばに侍り、ミーアを守るべき、皇女専属近衛隊の随行員二人の姿が、どこにも見当たらなかった。さらに言えば、エメラルダの護衛の姿も見当たらない。
すなわち、今この場には、二人の王子とキースウッド、ミーアとエメラルダ、それにアンヌとニーナという、七人しかいないのだ。
護衛たちの姿が……、忽然と消えていた!
――これは、どういうことですの……?
ミーアの脳裏に、昨日、エメラルダが披露した怪談が甦ってくる。例の、島をさ迷い歩く幽霊の後に、嬉々として語られたものだ。
確か船の上から忽然と人がいなくなり、幽霊船が生まれる話……みたいな話だったような……。
ぶるる、っと思わず背筋を震わせたミーアだったが、直後、微妙に気まずそうな顔をしているエメラルダを見てピンときた!
「……エメラルダさん、あなた……やりましたわね?」
ミーアはジトッとした瞳で、エメラルダを見つめた。
「や、やった? はて、なんのことですの? なんのことだか、わかりかねますわね」
思い当たることはありませーん! という顔をするエメラルダに、ミーアはずずいっと詰め寄る。
「とぼけるものではございませんわ。エメラルダさん、あなた、護衛を夜のうちに船に帰しましたわね? しかも、わたくしの護衛も上手く言いくるめて……」
「そそそ、そんなことするはずがないではありませんの? この私が、そのような……」
ミーアは無言でじぃいっとエメラルダを見つめる。見つめる、見つめ続ける……。
「う、うう、だ、だって、ミーアさま、もしかしたら、護衛には聞かせられないような睦言とか、交わされるかもしれませんでしょう? 他の者がいたら聞かせられないような話を、王子殿下たちがされるかもしれないじゃないですの? 私の気遣いは常識的ですわ」
つまり、着替えや身の回りの世話をさせるためにニーナとアンヌは残らせたが、護衛連中は邪魔っぽいから帰らせたということだ。
アベルがミーアに何らかのアプローチをかけて、こう……いろいろあるかもしれないし! などとエメラルダが余計な気を利かせたのだ。
否……、それだけではあるまい、と、ミーアはエメラルダを見つめる。
――たぶん「私にもシオン王子が話しかけてこないかしら?」なんて、思ってるに違いありませんわ。まったく、エメラルダさんは……。
呆れ気味に首を振るミーア。
――そんな都合がいいことが起きるはずがありませんのに。呆れたものですわ。
前時間軸の自らの行いなど、完全に記憶の彼方に放り投げているミーアなのであった。
ミーアの記憶の彼方は……以下略。
「話は後だ。ともかく避難しよう。キースウッド、先導を頼む」
シオンの指示のもと、一行は動き出した。




