第八十五話 "下弦の海月" のミーア
着替えを終えたミーアは、もじもじしながら幕屋の外に出た。
そこには、すでに水着に着替え終えたアベルとシオンが待っていた。
下は膝丈の半ズボン、上半身は裸という格好でだ。
剣術の鍛練によって引き締まった少年の筋肉に、普段のミーアであれば舌なめずりをするところだったが……、今はそんな余裕はない。
もじもじ、もじもじと、わずかに体をよじりながら、うつむき加減でミーアは言った。
「どう……でしょう? これ、似合っておりますかしら?」
ちらっと上目遣いに見つめつつ、そんなことを聞いてくるミーア。
そのミーアの格好は端的に言って、こう……もっさりしていた。
上下一体型の水着は、下は膝のすぐ上までが覆われているし、腰の周りには飾りなのか、スカートのような布が巻かれていて、少々野暮ったい印象が拭えない。
上半身を覆うのは、袖なしのシャツのような形状の水着だった。鎖骨やら肩やら、ちょっぴりフニッ! とした二の腕やらは露出しているが……、ぶっちゃけそれがどうしたという話である。
そんなもの、以前、ダンスパーティーで着たドレスだって同じだったのだ。別に露出が増えるでもなし、見栄えがするわけでもなしなのである。
ということで、その水着、普通に考えれば地味なデザインの……はずだった。むしろ、恥ずかしげにモジモジすることがおこがましいというものである。おこがましいというものなのである! まったくおこがましい話だ!
……そのはずなのだが!
「あ、ああ、うん。いいんじゃないかな?」
そう答えたアベルは頬を赤くしながら、チラっとミーアの方を見て、それからすぐに目をそらしてしまった。照れている! とても照れている! しかも……、
「と、とっても似合ってると思うよ……、君もそう思うだろう、シオン」
アベルに話を振られたシオンもまた、ほんのり頬を赤くしていた。それからアベルと同じように、ちら、ちらとミーアの方を見てから、
「あ、ああ、そうだな……。似合ってると思う」
わずかにかすれた声で言った。
そう、この二人の王子殿下は……剣の腕では大人の騎士にも引けを取らず、勇に優れたこの二人の若者は……、ミーアの水着姿に見とれてしまっていたのだ。
まさにそれは魅了の魔法にかかってしまったかのよう、あるいは、夏の砂浜マジックに騙されているようなものであった。
海辺で会う同級生の少女の普段は見せない姿に、二人の審美眼は大きく歪められてしまったのだ。
今の二人は、ミーアの背景に照り輝く後光が見えている……、ミーアの白い肌にキラキラと美しい輝きを見出してしまっているのだ。
そんな二人の反応を見たミーアは、
「まぁ! ありがとうございます。お二人とも、ほめていただいて嬉しいですわ!」
そうして満面の笑みを浮かべた。
ミーアにしてはたいそう可愛らしい微笑み、無意識の追撃に二人の王子は、呆気なく胸を撃ち抜かれてしまうのであった。
それはさておき……、水着の披露が一通り終わったところで、ミーアは早速、エメラルダから泳ぎを習うことにした。
「ところで、ミーアさま、お顔を水につけるのはできまして?」
お腹の部分まで水に浸かるぐらいの深さまで海に入って、エメラルダは言った。
「あら、そんなことできない方がおりますの?」
などとすまし顔で言いつつ、ミーアはエメラルダに借りた水中眼鏡を物珍しそうに眺めていた。
「では、それをつけて水に浮くところから始めてみましょうか。ミーアさま、こう、腕を思いっきり挙げて、頭の後ろにつけて」
エメラルダの指示通り、ミーアは腕をぐいいーっと持ち上げる。
「そうそう。で、そのまま、水の上に倒れる感じですわ」
そう言って、エメラルダは見本を見せるように、水の上に身を投げ出した。
すっと伸びた体、綺麗な蹴伸びの姿勢に、近くで見ていたニーナが拍手した。
「マーベラス! さすがはエメラルダお嬢さま。まるで伝説の人魚姫のようです」
そばで見守っていたエメラルダの護衛たちも、それに続いて拍手を始める。
「マーベラス、マーベラス! さすがはエメラルダお嬢さま!」
万雷の拍手の中、ぱっしゃっとキラキラ輝く水しぶきを上げて顔を上げたエメラルダは、長い髪をかき上げながらミーアの方に顔を向けた。
「こんな感じで、足もきちんと伸ばすんですのよ? では、どうぞ」
「ふふん、こんなの簡単ですわ!」
意気揚々と、ミーアは海に身を投げ出した。
そうして公開されたミーアの初蹴伸び! 海面にぷかーっと浮いた、その姿は実にこう……残念なものだった。
一瞬、呆気にとられた顔をしたアンヌが、それでも懸命に拍手をし、それに次いでまばらな拍手の音が響く。
やがて、ぱっしゃっと水しぶきを上げつつ顔を上げたミーアは、キラキラ輝く笑みを浮かべて、周りにいた人々の顔をうかがう。
「どうでした? わたくしも、人魚姫のようでしたかしら?」
そう問われた者たちは、一様に困った顔を見せる。
自然、ミーアの視線は二人の王子の方に向いた。
二人の王子たち……、ミーアの魅了の魔法にかけられて、審美眼を大きく歪められている、この二人の王子の目には、ミーアの姿は……たいそう素晴らしいものに映って……、
「う、うーん、そ、そうだな。えーっと……」
いなかった!
ミーアの問いかけに、王子たち二人は微妙に目をそらした。感想を言うのを一瞬だけ躊躇したのだ!
そう、この二人のピントをずらされた審美眼をもってしても、あるいは、二人にかけられたナニカの魔法ですらも、まるで修正が間に合わぬほど、ミーアの姿は残念さにあふれていたのだ。
ピンとまっすぐに伸びていなければならないはずの体は、けれど微妙なカーブを描いていた。
例えていうならば、それは弦を下にした弓のような形。お尻を突き出すような、なんとも残念な形だった。それが、さながら海月のように、ぷかぷかーっと、脱力して浮いているのだ。
ミーアに新たなる称号「下弦の海月のミーア」がつけられてしまうほどに、それは残念な姿だった。
しかも、潜るのが怖いから、足のほうが沈んでいるために……、さらに絶妙に残念な格好になってしまっていたのだ。
けれど、その残念さを指摘できる胆力は、残念ながら男子たちにはなかった。
剣の試合において、一歩たりとも引かない、王子二人は大いに狼狽えていた。
「う、うん、なかなかのものだった。そ、そうだね? シオン?」
「あ、あ、ああ、うん、そう、だな……。人魚……のように、見えないこともなかったような気がするかな……?」
アベルから振られて、珍しく歯切れの悪いことを言ってから、シオンはキースウッドの方に目を向けた。
それを受けたキースウッドは爽やかな笑みを浮かべて、
「はい、あまりの美しさに、目がつぶれてしまうかと思いました。ミーア姫殿下」
シレっとお世辞を言った。それから、立ち尽くす二人の王子に耳打ちする。
「偽証は悪徳。されど、女性を喜ばすための嘘は許されるものですよ」
若い王子殿下より、圧倒的に経験豊富なキースウッドであった。
そんな中……、ただ一人、ミーアに否を叩きつける人物がいた。
「ミーアさま、そんなのでは、全然駄目ですわ」
他ならぬエメラルダである。
エメラルダは怒っていた。
自身がライバルと認める大切な妹分の姫君が晒した無様な姿に、下弦の海月のミーアに腹を立てていたのだ!
……そもそも、泳げないミーアに無様な姿を晒させようと考えていたのは、他ならぬエメラルダなのだが、そのようなことはとっくに、記憶の彼方に放り投げている。
エメラルダの記憶の彼方は比較的近くにあるのだ。
「ミーアさま、足を下にしてはかえって体は浮かぬもの。もっと思い切って頭を深くまで潜らせるべきですわ」
元よりエメラルダは、ミーアに泳ぎを教えることに関しては一切手を抜くつもりはない。
つまりは、ガチである。
そして……。
「まぁ! では、なにができておりませんの?」
ミーアもまた、ガチだった。
その瞳には、真剣みを増した光が宿っていた。
なにしろ、ミーアはいつになるかはわからないが、海に落ちるであろうことが確定しているのだ。
小舟での出来事が、ミーアの危機感に火をつけていた。
我が身の安全のためであれば、全力を尽くすことに躊躇のないミーアである。
この日、エメラルダの熱血指導によって、ミーアは蹴伸びとバタ足、さらには背泳ぎのように、仰向けで水に浮かぶ術をマスターした。
「……あら? 仰向けに浮いていれば、息継ぎとかいう難しいのをマスターしなくっても息ができますし……、溺れることはないのではないかしら?」
……などと、しょーもない事実に気づいてしまったりもした海月のミーアなのであった……。
下弦の月、弓の弦を下にした形の月ですね。理科の授業で習ったときは格好いい! と思ったものです。
※下弦の月って半月のことなんじゃ……? というご指摘を読者さまから受けまして一部修正しました。
下弦の月→下弦の海月に……。
より酷いことになってしまったような気がしないではないですが……。




