第八十話 ミーア姫、充実する(なにかのフラグ……)
ミーアたちを乗せたエメラルドスター号は出港した。
いっぱいに張った帆が、程よく吹いた風を掴まえて、船はどんどん加速していく。
天気は晴天。雲一つない青空からは、さんさんと日の光が降り注ぐ。
今年の夏は涼しい日が続いているが、そうは言っても日差しはそれなりには強い。
そんな強烈な日差しを受けて、ミーアの髪がキラキラ煌いていた。
甲板を吹き抜ける潮風、その少し強めの風に、白金色の髪を躍らせながら、ミーアは船首に立っていた。
両腕を大きく広げて、体いっぱいに風を受けて、朗らかにほほ笑んだ。
「うふふ、素晴らしいですわ。わたくし、まるで飛んでいるようですわ!」
乗る前まで感じていたエメラルドスター号への不満は、記憶の彼方に、ぽーんっ! っと放り投げてしまっている。ミーアの記憶の彼方はとても近い位置にあるのだ。
そんなわけで、ミーアは実に上機嫌だった。
ここ最近、ずっと運動と痩せることに明け暮れていたミーアは、若干のストレスがたまっていたのだ。久しぶりの解放感に身をゆだねてしまうのは、仕方のない話だろう。
それでも、いささか調子に乗りすぎではあったが……。
ひときわ高い波が、船の横からたたきつけてきた。
ばっしゃん、としぶきが飛び散り、船が、まるで丘か何かに乗り上げたようにぽーんと上がったかと思うと、次の瞬間には、落ちた。
「……はぇ?」
当然、そんな急激な動きについていくことなどできるはずもなく、身を乗り出していたミーアの体は簡単に投げ出され……そうになったが!
「危ないっ!」
声とともに、ミーアを抱きとめる者がいた。
「あ、ああ、助かりましたわ。えーっと、うひゃあっ!」
振り返り、思わず悲鳴を上げるミーア。そう、背後から優しくミーアを抱きしめた人物、それはっ!
「あっ、あ、あ、アベル!?」
すぐそば、アベルの顔を見た瞬間っ! ふんっ! と気合を入れて、ミーアはお腹を引っ込めた!
ミーアの乙女心の塊が、素早い反射行動の姿をとったのだ。
それに気づいた様子もなく、アベルは、ほぅっと一息吐いて。
「ミーア、君は意外と子どもっぽいところがあるのだな……」
思わずといった様子でつぶやいた。
「なっ、あ、アベル、見ておりましたの?」
先ほどの自身の行動を思い出し……、ミーアは頬を赤く染める。
「も、もう、意地悪ですわ! 見ていたなら、声をかけてくださっても……」
「いや、見ていたというか。見とれていたというか……」
頬をかきつつ、アベルはそっと目をそらした。
「君がその、あまりに綺麗だったから……」
「――っ!?」
ミーアは、アベルの言葉を聞いて……照れた。体がカッと熱くなり、心臓の音が先ほどの高波以上の高まりを見せる。
――なっ、なな、なんてこと言いますの? やっぱり、アベル、ちょっと天然ですわっ! そんな恥ずかしいことを平然とっ!
大いに心の中で悶絶して後、自分を落ち着けるために、ほふぅっと小さく息を吐く。
それから、
――わたくしはお姉さん。アベルはすごく年下、年下、年下年下……。
などと心の中で唱えて後、
「あら? レムノ王国の王子さまは、キザなことをおっしゃりますのね?」
大人のお姉さんの余裕たっぷりの口調で言った。
……普段通りの口調で返せず、ちょっぴりふざけた口調でしか返せなかったミーアを責めてはいけない。今の彼女は大人の余裕たっぷりなのではなく、そう装わなければ、まともにアベルに向き合えない精神状態なのだ!
そんなミーアに、アベルはおどけた口調で返した。
「おや、帝国の叡智たるお方がご存じないのかな? ボクはこう見えても、結構キザな性格なんだ」
そう言って、アベルはミーアの腰に手をかけて、
「失礼。お嬢さん」
「はぇ? ひゃああああっ!」
ひょいっとミーアの体を持ち上げた。
先ほど立っていたところよりもさらに前、舳先の一段高くなったところに、ミーアを立たせる。
「なっ、なな、なに、なにをっ!?」
「ほら、ミーア、前を見てみたらどうだい?」
アベルに誘われるように視線を前に向けたミーアは小さく歓声を上げた。
「ふわぁ……先ほどより、さらに良い眺めですわ……」
青一色だった空には、もくもくと白い雲が浮かんでいた。真っ白な雲から零れ落ちる日差しが複雑な模様を作り出し、絵画のような、なんとも幻想的な光景を生み出していた。
先ほどよりも少しばかり高くなった波。白く弾ける飛沫が日の光を反射して、きらきら宝石のように輝いた。
「どうだい? 先ほどより、飛んでいる気分が味わえたかな?」
「ええ。堪能いたしましたわ」
ニコニコ笑みを浮かべるミーアであったが、不意に、何かに気づいたようにうつむいた。
「ん? どうかしたかな?」
「あの、先ほどわたくしを持ち上げた時、その……重かったのではなくって?」
もじもじするミーアに、アベルは思わずといった様子で笑みを見せる。
「君が? 重い? ははは、それはなにかの冗談かい?」
「え? え? でも……」
「ボクがこうして君を掴まえているのは、君が飛んで行ってしまわないようにだよ。君は、羽毛のように軽いから」
「まっ……まぁっ!」
その、あまりにも甘い言葉に、ミーアは頬を真っ赤に染めた。
「あ、アベル、そんな歯の浮くようなお世辞を……あなたやっぱりキザですわ……」
「ふふふ、それならば、君の叡智にしっかり刻み込んでおいてくれ」
そんなアベルとのやり取りを経て、ミーアは思った。
――わたくし今、すごく……充実しておりますわ!
いまだかつてないほど充実を見せる自らの人生に、ミーアは幸せをじんわり噛みしめる。
そんなミーアに応えるように、遠くの方……、白い雲が徐々に黒さを帯び始めていたのだが……。
ミーアが気づくことはなかった。