第七十三話 ミーアは信じる! エメラルダのポンコツを!
「……へ? 船遊び……ですの?」
寮の部屋に訪ねてきた少女の話を聞いて、ミーアは瞳をまん丸くした。
その少女……、エメラルダの従者が語ったのは驚くべき内容だった。
すなわち……、
「わたくしを船遊びに誘う、というんですの? エメラルダさんが?」
「はい。エメラルダお嬢さまは、毎年、夏休みにガレリア海に船遊びに出かけております。非常に穏やかな海で、無数に存在する島々は最高の避暑地にございます。詳しくはこちらの招待状をご覧くださいませ」
そうして、従者の少女は一礼すると、その場を後にした。
ミーアは手の中に残された招待状を眺めて、思わず苦笑いを浮かべた。
「なんとも、エメラルダさんらしいですわね……」
先日の、学園都市計画への妨害行為などなかったかのような態度に、ミーアは怒るより先に笑いの方が出てきてしまうのだ。
「信じられません。ミーアさまの邪魔をしながら、こんなこと言うなんてっ!」
一方、傍らで話を聞いていたアンヌが激昂していた。温厚なアンヌの怒り顔に、ミーアは首を振って見せる。
「別に珍しいことではございませんわ。アンヌ、そんなに怒ることではありませんわ」
どうせエメラルダは、学園都市の妨害に関与していたということを認めるはずがない。明確な証拠がない限りは知らぬ存ぜぬ記憶にないで乗り切るはず。
この程度の腹芸、貴族の社交場ではよくあることだった。
「でも……」
「大丈夫ですわ。そりゃあ、なんとも思わないというわけではございませんけれど……、大したことではありませんわ」
ミーアとしては、むしろこの手紙の扱いの方にこそ、頭を悩ませる必要を感じていた。
「ミーアさま、それは、お断りになるんですよね?」
「そう……ですわね」
ミーアは、しばし考える。
前の時間軸でのエメラルダの人となりと照らし合わせてみると、恐らくこれは、なにか企んでいるのだろうが……。
――いや、でも案外、ただ単に遊びたいだけって可能性も捨てきれませんわね。
確率としては半々ぐらいな気がする。
――もしくは、この前のお詫びとか……。
ただ、いずれにしろ素直についていくのは愚行というものだ。冷静に考えれば、エメラルダが何か企んで罠にはめよう(その罠がどれだけ馬鹿らしいものであったとしても)としている以上、素直についていく必要はない。
お断りしてしまえば、なんの危険もない。確実だ。でも……。
――もしも、ただ遊ぶために誘っただけだったり、この前のことのお詫びの意味もあったら、ちょっとだけ気まずいようにも思いますわね。
なにかちょっかいをかけてきたと思ったら、そんなことはまったく忘れているかのように、普通に遊びに誘ってくる。
それがエメラルダという少女なのだ。
けれど、それ以上にもっと実際的な問題で、ミーアは悩んでいた。それは……。
――ミーア皇女伝の内容も、気にはなりますのよね。
ミーアの脳裏を過ぎるのは、人食いの巨大魚をミーアが殴り倒すというエピソードだ。
もちろん、ミーアも、この話を本当だとは思わない。恐らくは盛った話だ。盛りに盛って、原形すら留めない話になっている可能性は決して否定はできない。
――さすがにわたくしでも、そんな怪物を殴り倒せるなんて思えませんけれど……でも、いずれ泳ぐ機会が訪れる可能性は否定できないのではないかしら……。
盛るにしても、なにかしら元になるエピソードは必要なはずなのだ。
そして、そのエピソードが「ミーアが海に落ちること」をもとにしたものという可能性は大いにあるように思えた。
――その時までに、泳げるようになっておかなければいけないのではないかしら……?
知っての通り、ミーアは風呂好きではあるが泳げない。
もしも泳げたら、セントノエルの大浴場で泳いで、ラフィーナから怒られていたはずだ。
……入浴がトラウマにならないでなによりであった。
それはともかく、泳げないこと自体は別に珍しいことでもない。
ティアムーン帝国は海に面していない。海水浴など海で遊ぶような伝統はないのだ。だから、帝国貴族は泳ぐことができる者はほとんどいなかった。
だが……エメラルダはその例外。極めて珍しい、泳げる貴族だった。
幼き日より海で遊んでいたことが、その泳ぐ技術に大きく貢献していたのだと聞いたことがある。
――海は体が浮きやすいとか水が塩辛いとか、わけのわからないことを言っておりましたけど……。
はたして泳げる人間に教えてもらえる機会を逃してよいものだろうか? 今後、そんな機会はないかもしれないのに?
腕組みしつつミーアは考え……、一つの結論へと至った。
――まぁ、そうですわね。エメラルダさんがなにを企んでるか知りませんが、たぶん、その程度ならば大したことないんじゃないかしら? よくよく考えたら、あの方が狡猾な蛇とも思えませんし……。
そう、ミーアは信じることにしたのだ。
エメラルダのポンコツが……、サフィアスを大きく上回るということを。
――あれがポンコツのふりをしているだけとも思えませんし……、大丈夫なのではないかしら?
他人のポンコツぶりは冷静に分析できるミーアなのであった。
翌日、ミーアは念のために、生徒会のメンバーに夏の予定を伝えた。
結果……、思わぬところに影響が出ることになるのだが……。
かくて、ミーアにとって忘れられない夏が始まる!
夏と海と無人島と……あと足りないものは……。
今週は夏の旅行の準備です。