第六十五話 老賢者の最後の教え~ルードヴィッヒの相談ごと~
ルールー族の村での宴会が終わり、夜も更けたころ……。
族長の家に泊まっていた放浪の賢者ガルヴのもとに、ルードヴィッヒがやってきた。
「ふむ、お前か、ルードヴィッヒ」
巨大な木を組んで作られた族長の家、その入口は少し高い所にあり、そこに行くには丸太の階段を上っていく必要がある。
その階段の中ほどに、ガルヴが腰をおろしていた。
その手には濁った酒の入った木の器があった。森の木を透かして見える月を肴に、酒盛りの続きをしていたようだった。
その姿を見て、ルードヴィッヒは少しだけ驚く。
酒に強く、あまり酔ったところを見たことがないガルヴが、上機嫌に顔を赤らめていたからだ。
「飲みすぎではないですか、我が師よ」
眉をひそめるルードヴィッヒに、ガルヴは意地の悪い笑みを浮かべる。
「そりゃあ、お前のせいじゃ。お前が愉快な出会いをもたらしたせいで、ほれ、わしもまだまだ働かなくてはならなくなったじゃないか。はは、人知れず枯れて死ぬ予定が、とんだ計算違いじゃて」
言葉とは裏腹に、ガルヴの声は明るい。
それは良いのだが、こんなに酔っていては相談はできないだろうか、と、ルードヴィッヒは懸念する。
けれど……、
「なにか相談ごとか? ルードヴィッヒ」
ふと見れば、師の瞳には鋭く明敏な光が宿っていた。
かなわないな、と苦笑しつつ、ルードヴィッヒは師の隣に腰かけた。
そうして、小さく息を吐いてから、
「実は私は、ミーアさまに女帝になっていただこうと……そう考えています。つきましては、師よ、ぜひとも協力をお願いしたいのです」
単刀直入に切り出す。回りくどいことを嫌う、師の性格を慮ってのことだ。
「ほう……女帝」
ガルヴは盃を満たした酒に目を落とし、思案げに瞳を細めた。
「なるほど。ミーア姫殿下は明敏な方。帝国の叡智の名に相応しいあの方であれば、国は良い方向に動き出すかもしれぬな……じゃが……」
それから、ガルヴは鋭い視線をルードヴィッヒに向けた。
「ルードヴィッヒよ、お前に一つ問いたいことがある」
「は、なんでしょうか、我が師よ」
姿勢を正すルードヴィッヒ。その耳に、かつて教えを受けていた時と変わることのない、深く静かな声が届いた。
「お前が、姫殿下を女帝に推すのは、あの方の叡智ゆえか?」
と。
その当たり前過ぎる問いかけに、ルードヴィッヒは戸惑う。一瞬、何か裏があるのではないか? と不安にすらなりながらも、彼は大きく頷いた。
「その通りです、師よ。あの方の叡智はあなたにも匹敵する。女帝となれば、きっとこの国をよく導き、悪しき慣習を……」
「では、あの方に叡智がなければ、どうじゃ?」
続く言葉に、ルードヴィッヒは首をひねった。
「それは……どういう意味でしょうか?」
「そうじゃな……、別の聞き方をしよう。もしもあのお方が、その知恵を悪しきことに用いたなら、お前は、どうするつもりか?」
「そのようなこと、なさるはずがありません。あの方には優れた叡智がある」
「悪にも優れた叡智はあるよ、ルードヴィッヒ。愚者が悪を成すのではない。愚者には愚者の悪があり、愚者の善がある。同じように知者には知者の悪があり、善がある。叡智とは善きことにも、悪しきことにも使えるものなのだ」
重々しい口調で言ってから、賢者は静かにルードヴィッヒを見つめる。
「その上で問おう。ルードヴィッヒ。お前があの方に仕えるのはなにゆえか? あの方の叡智のゆえか? それともほかのものに由来するのか?」
「それは……」
ルードヴィッヒは答えることができなかった。
「なにゆえにあの方に従うのか……。それ次第では、お前はあの方と敵対することだってある。はっきりしておくべきであろうな」
そう言って、師は静かに笑うのだった。
その夜のことだった。
ルードヴィッヒは夢を見た。
それは、不思議な夢だった。
ティアムーン帝国が斜陽を迎える不吉な夢。
大飢饉、疫病によって財政は悪化し、官吏は次々に国を離れていく。そんな中でルードヴィッヒは、皇女ミーアのもとで国の立て直しに邁進していく……そんな夢だ。
不思議なことに、夢の中のルードヴィッヒは、ミーアのことを嫌悪していた。
無能なる帝室の姫、国を傾けておいて安穏と生きる唾棄すべき輩。本来ならば、助けてやる義理などまったくないのだが、国を立て直すためには仕方ない、と嫌々ながらに協力している状況。
その日、ルードヴィッヒはミーアとともに小さな村を訪れていた。
疫病の蔓延からは免れ、大飢饉の影響も比較的少ない村。にもかかわらず、村人たちは腹を空かせているし、人々は諦念に身をゆだね、あるいは貴族を憎悪し、運命を呪っていた。
ミーア一行に対しても、あまり好意的ではなかったが、かといって近衛部隊に逆らってまで、剣を取ろうという者はいなかった。
そこで村の様子を見て、治安維持に腐心する兵士たちの慰問を終えた後、馬車の中で、ミーアは言った。
「ああ、ケーキが欲しいですわ、ケーキ。どこかにないものかしら。ねぇ、ルードヴィッヒ、パンはなくっても、ケーキはどこかに……あったりは……」
「ありません。ケーキもパンも小麦から作られておりますから」
「そう……ですの?」
ミーアはしょんぼり肩を落とす。それを見たルードヴィッヒは、少しだけイラっとする。
――小さなパンさえ手に入れるのが一苦労だというのに、言うに事欠いてケーキとはな……。
「ワンホールぐらいあればいいですわね」
――しかも、ワンホールとは……。どれだけ贅沢なんだ……。
苛立ちはすぐに呆れへと変わる。これだから、お貴族さまは……と、ため息を吐きかけたルードヴィッヒだったのだが……。
「それだけあれば、あの村の者全員とは言わないまでも、子どもたちには行き渡るでしょうし……」
「え……?」
続く言葉に……、一瞬だけ固まる。
「大きなケーキがいいですわね。みなにイチゴが行き渡るぐらい大きな……。そうしたら、イライラした気持ちだって落ち着きますわ」
――自分ですべて食べる気かと思ったのだがな……。
少なくとも、ルードヴィッヒのイメージするミーアはそういう人間だった。だからこそ、彼は不意に意地の悪いことを聞いてみたくなったのだ。
「姫殿下、もしも、私が一人分のケーキの用意ならできると言ったら、どうしますか?」
「本当ですのっ!?」
「いえ、仮にです。あくまで仮に……」
「え……う、うーん、そう、ですわね……。一人分……その一人というのは、巨漢の兵士一人分ということには……」
「なりません。あくまでもミーア姫殿下一人の分です」
それはあくまでも仮定の話。にもかかわらず、ミーアは実に真剣な顔で、うううーん、とうなった後に、
「そ、その場合は、くっ、し、仕方ありませんわ。わたくしも、一口で我慢いたしますわ……。あっ、でも、イチゴって一口サイズではないかしら? ということは、わたくしはイチゴがもらえるから、それで……」
眉間に皺を寄せて、ぶつぶつと何事かつぶやいているミーア。それを見て、ルードヴィッヒは衝撃を受けた。
――それを、悩むのか……。
偽善者ならば悩まない。すべて民に譲ると言えばいい。
高慢なる帝国皇女ならば悩まない。すべて自分が食べると、当たり前のように言えばいい。
にもかかわらず、ミーアは悩んだ。その挙句に、イチゴをもらうと言った。イチゴさえもらえれば、と言ったのだ。
自分が食べる分があれば、他者に恵んでやろうという人間はいる。それならばまだマシな方で、貴族というのは、自分が今日、明日、明後日、一年後、十年後まで餓えずにいられる保証がない限り、民に施そうなどとは思わないもの。
ルードヴィッヒは、ミーアに対しても、そんな印象を持っていた。
ゆえに、ミーアの答えは衝撃的だったのだ。
「ん? なんですの? ルードヴィッヒ。なにか、言いたそうですわね」
怪訝そうな顔をするミーアに、ルードヴィッヒは小さく首を振った。
「いえ、ただ、少しだけ驚きました。てっきり、自分だけで独り占めするものとばかり……」
「まぁ! ルードヴィッヒ、あなたはあの村の様子を見たわたくしがケーキを独り占めにすると、そう思っていたんですの!?」
「ええ、まったく疑いもしませんでした」
ノータイムでの返答に、ミーアが歯ぎしりする。
「ぐぬっ……、このクソメガネ……」
ミーアは何事か、ぶつぶつつぶやいていたが、自分を落ち着けるように、はふぅっと大きくため息を吐き、
「わたくしが……知っていて、なおかつ手を差し伸べることができるにも拘らず、倒れた者を放っておくと……そう思われるのは、いささか心外というものですわ。だって、そのようなことをしたら、とっても気分が悪いですわ」
やれやれ、と首を振りながら言った。そんなミーアに、ルードヴィッヒは、心から感心した様子で答える。
「なるほど……。ミーア姫殿下、あなたはどうやら、ある程度はまともな方のようですね」
「なっ!? ある程度はってどういうことですの? このクソメガネ……、相変わらず口が悪いですわ!」
「どっちがですか……仮にも皇女たる方が『クソ』などと品がないですよ」
そんな風に、毒づきつつも、ルードヴィッヒは思ったのだ。
この方は、主君として最善ではないのかもしれないが……仕え甲斐がある方かもしれないな、と。
そして、彼は知っていく。
なるほど、ミーアは高慢だ。そのくせ文句を言いつつも、ルードヴィッヒの進言によく耳を傾けた。
なるほど、ミーアは小心者だ。そのくせ逃げもせずに、帝国に踏みとどまり、国を立て直すために努力している。
なるほど、ミーアは頭が悪い。そのくせ、ルードヴィッヒに嫌味を言われて、泣きべそをかきつつ、必死に必要なことを覚えようとする。
そんな彼女を見るうちに、ルードヴィッヒは願うようになっていた。
どうか、この愚かな姫の頑張りが、少しでも報われますように、と。
そして、いつしか夢見るようになった。
もしも帝国がこの窮地から脱することができたその日には……。
このどうしようもなく頼りない主君の傍らで、助言し、彼女のもとで働くことを。この国をよりよい形にするために、彼女の臣下として力を尽くすことを。
そんな未来を悪くないと思う自分を、ルードヴィッヒはきちんと自覚していた。
だからこそ、ミーアが断頭台にかけられた時、彼は……。
そこで、目が覚めた。
「今のは……夢、だったのか?」
ルードヴィッヒは冷や汗をかいていた。
つい今しがたまで見ていた夢……、それは記憶といっても差し支えがないぐらいにリアルで……。
「馬鹿なことを……。ミーア姫殿下があんなに愚かなはずがないのに……」
ありえない夢だ。帝国の叡智たるミーアに対して、ずいぶんと失礼な夢だった。
ルードヴィッヒは苦笑しようとして、けれど、笑うことができなかった。
彼の心の深い部分が、笑い飛ばすことを拒絶していた。
あれは、笑ってはいけないもの……決して忘れえぬ大切な記憶であったと……。
そして、同時に思っていた。
あれは、あの夢の中にいた者は紛れもない自らの主、ミーア・ルーナ・ティアムーンであると……。
表面上はまったく違いながら、その芯の部分は、同じであったと……。
ルードヴィッヒの脳裏に、貧民街での光景が甦る。
薄汚れた子どものところに駆け寄り、それを介抱したミーア。
なるほど、目の前で子どもが倒れていたならば、それを助けるのは当たり前のことだ。
道義的にそうすべきだし、周りの目を慮り、打算的に判断してもそうすべきだ。
けれど、打算であれ、計算であれ、叡智であれ……、それが例え必要なことだと頭でわかっていたとしても……。
果たして、どれだけの貴族が、汚れた弱者を助け起こすだろうか?
平民の自分であっても、貧民街に入ることを躊躇ったのだ。
けれど、ミーアはそれをした。
それをするのが、ミーア・ルーナ・ティアムーンなのだ。
倒れている者がいると知り、手を差し伸べずにいるのは気分が悪いという、それこそがミーアの芯の部分であって……。
「……ああ、そうか」
ルードヴィッヒはようやく気付く。
あふれる叡智への尊敬の念はある。それは揺らぐことはない。
けれど、自身の忠誠の向かう先はむしろ……。
「それこそが、俺が忠義を捧げるべき、ミーアさまの本質か」
そうしてルードヴィッヒの胸に去来するのは、万感の思いだ。
ずっと忘れていた気持ちを……、かなわなかった夢を思い出したような気がした。
――ああ、俺は……帝国の叡智にではなく……ミーア姫殿下に仕え、その腕として働くことを……、ずっとそれを夢見ていたような気がする。
翌日、再びルードヴィッヒは師のもとを訪れた。
弟子の、どこか吹っ切れたような顔を見て、ガルヴは静かな笑みを浮かべた。
今日、その手には酒杯はない。
弟子の覚悟を聞くのに、酔っていては礼を失するからだ。
「答えは、出たようだな、ルードヴィッヒ」
「はい。我が師よ」
「ならば、問おう。ルードヴィッヒよ。お前はなぜ、ミーア姫殿下を女帝へと推すのだ?」
ルードヴィッヒは、投げかけられた質問を自分の中で消化するように、わずかな間、黙り込んで後……、答える。
「ミーアさまは……知らずに間違うことがあったとしても、知っていて間違いを正さないことは、されぬ方ゆえに……」
倒れている者がいることを知らずにいることはあるかもしれない。されど、それを知ったならば、決してそれを放ってはおかない。それを放置することを嫌悪できる心を持っている。
ゆえに、ルードヴィッヒは己が忠誠、身命さえも捧げんと誓う。
「もしもあの方がその知恵を失ったとしても、私が知らせましょう。そうすれば、あの方は決して間違えたりはしないでしょう」
その答えに、ガルヴは満足したように頷く。
「見事……、己が道を見出したか、ルードヴィッヒ」
「はい。我が師よ。教えを感謝いたします」
「それはお前に対する我が最後の教えとなろう。ミーア姫殿下のために励めよ、ルードヴィッヒ」
「はっ。師匠も、ミーアさまのために、ご協力をよろしくお願い致します」
そうして、ルードヴィッヒは深々と頭を下げるのだった。
そのような極めて真面目な会合がもたれていたとは露知らず、
「ふふん! ルードヴィッヒも大したことございませんわ! あの程度の話をまとめること、わたくしにかかればチョロイもんですわ!」
ミーアは得意満面にベルマン子爵領の領都に帰還を果たすのだった。
ガルヴの呼びかけによって、彼の弟子たちを加えたミーア学園の講師陣の問題は一気に解決する。
もっとも、この後、ペルージャンの姫君、アーシャ・タフリーフ・ペルージャンを講師に迎えるにあたり、ちょっぴり騒動が起きたりするのだが、それはまた別の話である。
活動報告を更新しました。
今週と来週あたりはまったり狭間の日常エピソードになるかと思います。




