第六十四話 ウサギ鍋でお祝いを
放浪の賢者の幕屋を訪問するのも、三日目を迎えた。
もはや通いなれた道を悠然と歩いて行ったミーアであったが、目的地が近づいてきた時、いち早く異変に気が付いた。
「あれは……」
小さな幕屋の前に、一人の老人が立っているのが見えたのだ。
豪奢な白髪と見事な白髭の持ち主……。一見した印象はまさに、森の賢者といった風貌だった。
――なるほど、あれがルードヴィッヒのお師匠さまですのね。ああ、残念ですわ……。あと一日、失態を広げられれば決定的でしたのに……。
ちょっぴり残念がるミーアであるのだが……、すぐに態勢を整える。
――でも、もう手遅れというものですわ。このわたくしに隙を見せたのが運の尽き。嫌味を言う隙なんか見せませんわよ!
鼻息荒く気合を入れて、ミーアは放浪の賢者に歩み寄る。
「お初にお目にかかります。放浪の賢者殿。わたくしは、ミーア・るーにゃ……」
噛んだ! 失態である!! 早々に隙を見せてしまったことに、ミーアは心の中で舌打ちする。
――ぐっ、わたくしとしたことがっ! このような失敗をっ!
一瞬焦りかけるが、すぐに気持ちを切り替える。
――大丈夫、大丈夫ですわ……。このぐらい失態の内には入りませんし、相手の方が依然として非は大きいはずですわ。
ぐっと顔を上げ、ミーアは胸を張って言う。
「ミーア・ルーナ・ティアムーン。わたくしがティアムーン帝国の皇女ですわ」
「ご丁寧な挨拶、痛み入ります。ミーア姫殿下。ガルヴァヌス・アルミノスでございます。お会いできて誠に光栄至極にございます」
深く澄んだ、知性的な輝きをたたえた瞳を、ミーアに向けてくる老人。
静かな迫力に、ミーアは一歩後じさり逃げかけるも、すぐに気を取り直して老人の服に目を向ける。
彼は……、皇帝の前に出てもおかしくはないほどに、きっちりとした礼服を着込んでいたのだ。
ここでも、ミーアは自らの失態を悟る。
今のミーアは、ルールー族から借りたモコモコの毛皮を着ていた。
寝る時に着るのにちょうどいい、実に触り心地のいい一品で、部屋でゴロゴロする時にはぜひともほしい一品……ではあるのだが、重要人物との会談に着てくるようなものではない。
――くっ、やはりきちんとした服を着てくるべきでしたわ。まさか、森の中であのような正式な礼服を着て待っているなんて……。話が違いますわよ、ルードヴィッヒ!
胸の中で恨み言をつぶやきつつも、ミーアはなんとか笑みを浮かべる。
「はて……、珍しい格好をしておりますわね。ルードヴィッヒによれば、あなたは、その場所に相応しき服がある……と、そういう考えの方ではなかったかしら?」
「姫殿下の前に出るに、これ以上、相応しき服がありましょうか……。どうぞ、これまでの臣の非礼を、お許しくださりますように」
そう言うと、彼はその場に膝をつき、地面につかんばかりに頭を下げる。
思わぬ展開にミーアは一瞬戸惑うが……、
「許すなどと……。お願いがあって来たのですから、待つのは当然のことですわ」
すぐにニッコリ優しげな笑みを浮かべる。
――ふふん、そうですわ。あなたはわたくしにとっても失礼なことをいたしました。ええ、ええ、謝ったって許してなんかあげませんわ! あなたはとっても、とーっても失礼なことをしてくれたんですのよ? 許してもらいたいと思ったら、素直にわたくしの依頼を受けることですわね。
などという胸の内を一切見せずに、ミーアは言った。
「こうしてお会いできて、よかったですわ。ご高名なあなたに、ぜひともお願いしたいことがございまして……」
「謹んで、拝命いたします」
「……はぇ?」
刹那の切り返しに、ミーアは瞳をパチクリと瞬かせる。
「え、えーと、まだ、わたくしなにをお願いするとも言っていないのですけれど……」
「どのようなご下命であろうとも、お受けいたします。外国に潜み、情報をとってこいと言われるのであればそういたします。槍を持ち前線に出ることを望まれるのであれば、一番槍を務めましょう」
老人は、静かな瞳でミーアを見上げた。
「さぁ、臣に、姫殿下のお望みをお聞かせください」
――こっ、これは……いったい?
ミーアは混乱する。けれど、気を取り直してすぐに説明を始める。
なんだか知らないが、ともかく相手の気が変わらない内に、一気に話をつけてしまう構えだ。
機を見るに敏、どんなに小さな兆候であろうとも、自らを押し上げる波を見つけるのが上手い、ミーアは熟練の波乗り職人なのである。
「あなたには、わたくしが建てる学校の、学園長をしていただきたいんですの」
「学校……でございますか」
「ええ。ベルマン子爵領にできる予定の皇女の町を学園都市にする予定ですの。そこに帝国中の優秀な子どもたちを集めて……」
「優秀な子どもたち、と言いますと……」
「我が師よ。ミーア姫殿下は中央正教会の協力を取り付け、孤児院の優秀な子どもたちを無料で学校に入学させようとされているのです」
「なるほど、確かに知恵働きは金のあるなし、身分の高い低いに関係の無き事……。さすがは姫殿下、ご慧眼でございますな……」
ルードヴィッヒの言葉に、感心の声を上げる老人。感嘆のにじみ出た視線を向けてくる。
対してミーアは……、
――ふふんっ! もっと褒めても良いですわ! どんどん褒めていいんですわよ?
褒められてご満悦なミーアは、ちょっぴり胸を張る。
「師よ……それだけではありません。ミーア姫殿下は、その子どもたち、帝国の次世代を担う若者たちによって、この国に巣食う悪しき反農思想を根底から改革しようとお考えなのです」
「おお! なんと、それは……」
ルードヴィッヒの言葉に、驚愕の呻きを上げる老人。感嘆のにじみ出た視線を向けてくる。
対してミーアは……、
――はて?
思わず、首を傾げる。
ミーアとしては、ミーア学園の一番の目的はセロ・ルドルフォンの新型麦作りを実現させることだ。
なので、悪しき反農思想とか言われても、なにがなにやら……といったところである。
けれど……、
――まぁ、ルードヴィッヒが言っているのですし、とりあえず乗っかっておけば間違いはございませんわ。お師匠さまも感心している様子ですし。
瞬時の判断、波に乗ることを選択! そう、ミーアは熟練の波乗り師なのである!
「その通りですわ」
そうして、再び、ぐぐっと胸を張る。
「そのために、すでにペルージャンの姫君を講師に迎えることをお考えです」
「なるほど……ペルージャン農業国……。確かにかの国の農業技術は帝国にとって非常に有益なもの。実現すれば、これは歴史を変える大偉業になり得ましょう」
そうして、放浪の賢者は、わずかばかり潤んだ瞳でミーアを見つめた。
「もはや死するばかりであったこの老骨めに、かような栄光に携わる機会をお与えいただけるとは……」
――なんだか、よくわかりませんけれど……。
盛り上がる男たちについていけないミーアであったが、とりあえず、確認しておくことにする。
「それでは、改めて放浪の賢者どの……」
「かの帝国の叡智に臣のような者が、賢者と呼ばれては面映ゆうございます。どうぞ、ガルヴとお呼びください」
「そうですの? それでは、ガルヴ殿……、改めてお願いいたしますわ。どうか、我が学園の長をしていただけないかしら?」
ミーアの問いかけに放浪の賢者、ガルヴは頭を深々と下げ、
「謹んで、拝命いたします」
そう答えるのだった。
そんなガルヴを見下ろしながら、
――ふふん、チョロイものですわ!
渾身のドヤ顔を披露しつつ、上機嫌にミーアは言った。
「あ、そうですわ。今日は一緒に食事をなさらない? せっかくガルヴ殿にお会いできたのですし、お祝いしなくてはなりませんわ」
その夜、ルールー族の村にて、放浪の賢者を交えての大宴会が開かれた。
その日のメニューは、ミーアがお願いしていたウサギ鍋だった。
「臣の大好物のウサギ鍋を用意していただけるとは……」
そのもてなしに感激した放浪の賢者は、改めてミーアへの忠誠を誓ったのだった。