第六十三話 その命の使い道~冬の季節、未だ終わらず~
残された命の日数を、ふと数えてみる。
別に、なにか死に至るような難病に侵されているわけではない。けれど、老年を迎えた自身には、それほど多くの時は残されてはいまい、と、その老人は思う。
仮にも賢者の名を冠された彼は、自分が永遠に生きるなどと愚かなことを考えることはできなかった。
人の一生は、せいぜい長くても百年には届かない。
自分に残された時間は十年か、多くとも二十年はないだろう、と思う。
死を見つめ、自身の人生に思いを馳せる時が増えた。
まず、幸福な人生であったといえるだろう。
季節の移り変わりのようなものが人生にもあるとしたら、自分は間違いなく冬の時期に入っている。
才芽吹く春を超え、華々しく苛烈な夏を過ぎ、充実した実りの秋を終えた先にある季節。
寒々しい枯葉の季節、されどそれは、新たなる春の到来に備える時期でもある。
知りたいことを、自己の欲求のままとことんまで調べ、学び、大陸の様々な場所に足を運んだ。
充実した春、夏、秋を終え冬……多くの若者が充実した春を迎えられるよう、自身の知恵を惜しむことなく与え続けた。
出会いに恵まれ、多くの優秀な弟子を世に送り出すことができた。
そうして、冬の季節も終わりに差し掛かり、残された少ない時間をいかに使おうか、考えることが増えてきた……そんな折、愛弟子のルードヴィッヒが自身を探していることを知った。
手塩にかけた大切な弟子、ルードヴィッヒは才気にあふれる若者だった。
鋭い分析力と極めて理性的で合理的な思考ができる青年……これから先、その才をなにに用いていくのか、密かに楽しみにしていたものだった。
その彼が、今は帝国皇女に仕えているという。
正直、愚かな話に思えた。
老人が知る限り、貴族や王族などというものは高慢で愚かな者ばかりだった。そのような者のもとで若者が優れた才能を浪費する……。そのような愚行を見過ごすわけにはいかない。
そんな思いに捕らわれた時、老人は見つけたような気がしたのだ。
自分の……残された命の使い方。
三顧の礼の試験は"放浪の賢者"が皇女ミーアを測るためにするのではない。
弟子であるルードヴィッヒに、帝国の叡智の本性を測らせるためのものだった。
もしもこの無礼に対して、激高して殺すようなことがあれば、それは凡庸以下の行いだ。
皇女ミーアはルードヴィッヒが仕えるのに相応しくない存在であることが明らかになる。
けれど、もしルードヴィッヒの進言を聞き入れて、形はどうあれ三度もこの場所に訪れたならば……、それは少なくとも臣下の忠言を聞き入れる柔軟さと、相手の無礼を許す寛容さの持ち主と言えるだろう。
それは自身の命を使った試験……。
それこそが自分の最後の務めだと信じた老人の……大切な弟子へのはなむけ。
そのはずだったのだが……。
「なんということだ……」
放浪の賢者は、幕屋の前に立ち尽くすミーアを見て、驚愕に目を見開いていた。
ちなみにこの老人、現在、幕屋の中ではなく、その後ろにある森の木に登って、そこからミーアたちのことを眺めていた。
……元気なおじいちゃんなのである。あと三十年ぐらいは生きそうである。
「――確かにルードヴィッヒには三顧の礼をもって試すと言ったが……、まさか、あのまま、立ったままでお待ちになるとは……。ルードヴィッヒは、ミーア殿下に話したのだろうか……?」
彼は小さく首を傾げた。
「いや、もしも三顧の礼のことを聞いていたとしても、あの待ち方……。座りもせず、部下と雑談するでもなく……、ただわしに会うためだけに、待っておられるとは……」
老人は、そっと瞳を細めた。
誤解している者も多いが、時間というものは、ただではない。
それが帝国皇女のものとなれば、なおのことだ。
その一分一秒は、黄金の価値を有するといっても過言ではない。
「にもかかわらず……姫殿下は“ただ待って”おられる……」
もしも仮に、ミーアが本を読みながら待っていたとするならば、彼女は自身の時間を「待つ」のに半分、「本を読む」のに半分使ったことになる。
けれど……、ミーアはただ待っているのだ。ただ、放浪の賢者に会うという……、そのためだけに自身の時間を費やしているのだ。
その時だった。
ふいに、老人は、見つめる先のミーアと目が合ったような気がした。
「……先ほどからじっとこちらの木の方を見つめておられる。つまりは、わしの存在に気づいていると……そういうことか!」
……んなわきゃあない。
なにしろこの老人、こっそり隠れて観察するために全身に木の葉をくっつけた、いわゆる迷彩処理の施された服を身に着けているのだ。その服のまま、木に登り、上からミーアたちの様子を眺めているのである。
森には森に適した服がある――森に溶け込む服がある。そんな持論を口にする人物に相応しい服装といえる……のかもしれない。
……愉快なおじいちゃんなのである。
ともあれ、それゆえに、ミーアであろうがディオンであろうが、ルールー族の熟練の狩人であろうが、この距離で見えるわけがない。
それはいわゆる「舞台女優と目が合っちゃったよ!」と騒ぐのと同レベルの錯覚なのだった。
放浪の賢者と呼ばれた男が、耄碌したものである。
「……なるほど、見事だ、ルードヴィッヒ。見誤っていたのは、わしの方であったな。ふふ、わしも耄碌したものじゃわい」
……まったくである。
「これほどの礼を示されてしまっては……仕方あるまいな。冬の季節は未だ終わらずか。ふふ、しかし、人生の最後も最後という時に、まさか、このわしが帝国皇女の命に従うことになるとは。わからぬものじゃ。人生は……。だが、だからこそ面白い、か……」
老人は笑った。その笑みは、どこか活力に溢れた嬉しげなものだった。
ちなみに……ミーアは待ち時間を森の木の葉を数えるなんぞという、完全無欠の時間の浪費をしていたわけだが……。
その事実を放浪の賢者が知ることは、ついになかった。




