第六十話 三顧の礼~ミーアの計~
ベルマン子爵邸で学園建設計画の説明を受けたさらに翌日、ミーアは実際に建設途中の学園を視察した。
視察といっても軽く様子を見る程度、本題はむしろその後だった。
そう、いよいよミーアは対面するのだ。
ルードヴィッヒの師匠、放浪の賢者と。
「ミーア姫殿下……そろそろ」
ルードヴィッヒに声をかけられ、ミーアは一度、パンと自分の頬を叩き、
「では……行きましょうか」
覚悟を決めて、静海の森に足を踏み入れた。
そうなのだ、ベルマン子爵邸にて、甘いお菓子の歓待を受けたミーアは冷静になってから思ったのだ。
どうも、やっぱり逃げるのは難しそうだぞ、と……。
そして、同時にアンヌが自分を励ましてくれようとしていたことにも気が付いていた。
――これは……やっぱり逃げるわけにはいきませんわね。
基本的に、忠臣たちの誠意にはきちんと応えなければならないと思っているミーアである。
意外と根は真面目なのである。
――それに、ルードヴィッヒも自分ではできないから、わたくしを頼ったわけですし……。
意外と根は真面目なのである。
――きっとわたくしが見事に説得して見せたら、目をまん丸くして驚くに決まっておりますわ。それはすごく気持ちよさそうですわ!
意外でもなく、根が不純なミーアなのであった。
というわけで、ミーアは思考を切り替えた。切り替えが早いのがミーアのいいところだ。
どうすれば、ルードヴィッヒの師である放浪の賢者の協力を取り付けることができるのか……。
昨晩、ミーアはベッドの中で考えて、考えて……起きた時には朝になっていた。
よいアイデアは浮かんでいない……当たり前である。
ともあれ、よく寝てすっきりした頭でミーアは思った。
「いろいろやってみるほかにありませんわ!」
かくして、ミーアの蠢動が始まった。
「ところで、ルードヴィッヒ、このような格好では、お師匠さまに失礼にあたるのではないかしら?」
本日のミーアは、野外活動用の厚手の服を着用している。上は長そで、下も厚手のズボンで、足首まで布で覆われている。
ルードヴィッヒの師匠は、ルールー族の村よりさらに森の奥深くにいるらしく……、草や枝で肌を傷つけないように、そのような格好になっているわけだが……。
「礼を大切にされる方なのでしょう。ここは、やはりドレスの方が……」
「いえ、我が師は過度な装飾を嫌います。森には森に適した服があると……。そういう考え方なので、むしろドレスで行った方が印象は悪いでしょう」
「まぁ、そうですの……?」
ミーアはちょっぴり残念そうだった。
――ふーむ、この不格好な服では、わたくしの美貌を活かして交渉を有利に進めることは難しそうですわね……。残念ですわ。
……突っ込んではいけない。
「あっ、そうですわ。それでしたら、なにか手土産などを持っていくのはいかがかしら? お師匠さまお好きなものって、なにかないかしら?」
新月地区の神父を相手に使った手である。
策士ミーアの智謀が冴えわたる!
「師匠の好きなもの……ですか? うーん、なんでも食べる人だから、どうでしょうね……。以前、森で捕まえたウサギを鍋にして食べるのが絶品とか……」
「ああ、わたくしも食しましたわ。なるほど、なかなかの通ですわね」
ミーアはレムノ王国で食べた絶品ウサギ鍋を思い出して、じゅるりと口元をぬぐった。
美食家ミーアの食欲が燃えたぎる!
――とはいえ……、運よくあの美味しいウサギが捕まえられるわけもありませんし……、賄賂で心証をよくするのも難しそうですわ……。残念……。
そうこうしている内に、森はどんどん深くなっていく。
「せっかくですから、ルールー族の方たちにも挨拶していきたいところですけど……」
「そうですね……。その機会も設ける予定です。彼らも学園建設の協力者ですから」
「そう。それはよかったですわ」
道は曲がりくねり、狭くなり、頭上を覆う木々の葉は濃さを増していく。
「ここで戦う羽目にならなくって、ホッとしますぜ。姫殿下には改めてお礼を申し上げなきゃなりませんな」
バノスが、辺りに目を向けて二の腕をさする。
視界は最悪。地の利がない側にとって、このような場所で戦うなど、想像もしたくないことだろう。
そんな薄暗い視界が、一気に開けた。
そこは小さな広場のような場所。その真ん中には、小さな幕屋が建っていて……。
「着きました。あれが師の仮住まいです」
「まぁ、あれが……」
ミーアは物珍しげに、小さな幕屋を眺めまわした。
「……ふむ、これがあれば……なにかあった時にはいいですわね……。あとで構造を教えてもらおうかしら……」
などと、しばらくぶつぶつつぶやいていたミーアだったが……。
やがて、覚悟を決めたように、ふぅっと大きく息を吐いて、吸ってから。
「放浪の賢者殿、いらっしゃいますかしら?」
幕屋に呼びかけ、返事を待つ。
返事は……なかった。
「……あら?」
小さく首を傾げるミーア。
――聞こえなかったのかしら? 賢者などと呼ばれているのですから、相応のお歳でしょうし、耳が遠いのかもしれませんわね。
そう思いなおして、改めてミーアは声をかけた。けれど、返事はやっぱりない。
「お留守かしら……? 念のために聞きますけど、ルードヴィッヒ、わたくしが今日来ることは、お師匠さまには?」
「もちろん、伝えてあります」
ルードヴィッヒはしばし考えこんでから、
「ただ師は……、時折、思考に没頭すると外界からの呼びかけを無視することがあります。私が知っている中で、最も長かったのは五日間ぐらいでしょうか。閉じこもって、一度も外に出てこなかったことがあります」
「なっ!」
それを聞き、アンヌが絶句した。けれど、すぐさま、
「ミーアさまに対して、失礼じゃないですか!」
珍しく、怒声を上げた。それに同調するように,周りの近衛兵たちも顔に怒りの表情を湛えている。けれど、ミーアはそれを片手で制した。
「別に構いませんわ。こちらはお願いに来ているわけですし。あちらにはあちらのご事情があるでしょう」
「でっ、でも、ミーアさま……」
「では、しばらくここで待たせていただきましょうか」
そう言ったミーアは、特に怒るでもなく、静かな顔をしていた。
……否、よく見ると、その口元は、微かに笑みすら浮かべていた!
――これは好機到来ですわっ!
ついに、ミーアの優れた戦略眼が万に一つの勝機を見出した。
会うという約束をしておきながら留守にする。あるいは無視する。
それは、明確に相手の非である。
――反撃のための絶好の材料ですわ! なにか嫌味を言われたら、これを言い返してやればいいですわ。そのためには……。
「ミーアさま、でしたら、どこかにお座りになって……」
「いえ、構いませんわ。ここでそのまま待ちますわ」
だらけた格好で待っていたら、そこを突かれるかもしれない。この状況を完璧に相手の失点にするためには、ミーアは完全無欠の礼節をもって相手を待つ必要があるのだ。
――となれば、会話もあまりしない方がよいですわ。黙って、姿勢を正して待つ必要がございますわ。
幸いなことに、ミーアは地下牢生活で時間のつぶし方を心得ている。
あの時は、何日間も地下牢の石の数を数えたりしたものであるが……。
――あの時に比べれば全然マシですわ。そうですわね、その辺の草の数でも数えて待ちましょうか……。一本、二本、三本……。
無表情に直立不動のまま、ミーアは草を数えだした。
……ちょっぴり怖い。
やがて、草の数が三万を超えるころ……。
――ふむ、このぐらいで十分かしら……。
ミーアは満足げに頷いて、周りの者たちに声をかける。
「今日は無理のようですわね。残念ですけれど一度戻って、日を改めて……」
その時、ミーアの脳裏に悪魔的な閃きが到来した。
――そうですわ! この失態を、さらに致命的なものにできれば交渉を圧倒的に有利に運ぶことができるのではないかしら?
ミーアの耳に、先ほどのルードヴィッヒの言葉が甦る。
――確か、五日間閉じこもって、返事がなかったとか言っておりましたわ……。ということは……。今日から何日か連続で訪れれば、さらに相手の弱みを握ることができるのでは?
たとえば、一度来た際に応対できないというのは、礼を失することではあってもギリギリ許されるかもしれない。けれど、それが二度続いたら? あるいは、まかり間違って三度続いたとしたら……?
これは致命的な失態である。
それこそ「貴族は礼儀がなってないから嫌い」などと言えないぐらいの重大な失態だ。
なにせ、それを言う側が著しく礼を失しているのだから、その発言に説得力はない。というか、嫌味を言うことさえ羞恥を感じるほどの失態なのだ。
――それほどの弱みを握ることができれば……、もはやわたくしのお願いを聞かないわけにはいきませんわ! 我ながら素晴らしいアイデアですわ!
自らが考え出した完全無欠の計略に、ミーアは思わず震える。
そんな素晴らしいアイデアを実現すべく、静かにミーアは動き出した。
「ルードヴィッヒ、申し訳ないのですけど、どなたかにルールー族の村に行っていただけないかしら?」
「ん? それは……、どういうことでしょうか?」
首を傾げるルードヴィッヒに、ミーアは微笑みを浮かべて言った。
「もしも今日、あなたのお師匠さまにお会いできなかったら、ルールー族の村に泊めていただくのが良いのではないかと思って。ほら、いちいち、ベルマン子爵の館まで戻るのは、面倒でしょう?」
ベルマン子爵邸まで戻ってしまうと、なんやかやとあって、連日この場所に来るのは難しくなるかもしれない。けれど、ルールー族の村に泊まれば、そんなことはない。
ルードヴィッヒの師匠が思索にふけっているうちに「何回か会いに行っても会えなかった」という状況を作りたいミーアである。最低でも明日もう一度。欲を言えば明後日さらにもう一度……。
「で、ですが、森の中ではいろいろとご不自由があるかと思いますが……」
「あら? わたくし、別に構いませんわ。レムノ王国では外で焚火を囲んで寝たりもしましたのよ?」
クスクスとおかしそうに笑うミーアに、ルードヴィッヒは呆然とした顔をするのだった。
かくて、堅固なる放浪の賢者を陥落せしめるべく、≪ミーアの計≫は静かに始まった。




