第五十九話 三顧の礼~賢者の試験~
静海の森……。
ルールー族が暮らすその森に、一人の男がやってきた。
豪奢な金髪と理知的な光を宿したブラウンの瞳……。ベルマン子爵のもとで、皇女の町の建設に携わる赤月省の文官……、その名をバルタザル・ブラントという。
伯爵家の三男としてこの世に生を受けた彼は、ルードヴィッヒの旧友にして同門の男でもあった。
ここ最近、町の建設の打ち合わせで、幾度も行き来した細い道を歩く彼の顔は、深い思案に沈んでいた。ルールー族の村を過ぎ、さらに森の奥へと進んでいく。そんな彼の目の前に、小さな幕屋が現れた。
ごわごわした厚手の布で作られたそれは、とある少数部族に伝わる即席の住居だった。
その前に立つ見慣れた青年の姿を見つけて、バルタザルは気安げな声をかけた。
「よう、ルードヴィッヒ。姫殿下のところにいないから、どこにいるのかと思ったぞ」
それで振り返ったルードヴィッヒは、小さく肩をすくめて見せた。
「別に俺がいてもできることはないからな」
「なんだ、ずいぶん冷たいじゃないか。あの姫殿下に忠誠を誓っているんだろう?」
「ふん、俺がいなくても、姫殿下はお前を感心させて見せたんじゃないか?」
悪戯っぽい笑みを浮かべるルードヴィッヒにバルタザルは苦笑いした。
「確かにな。あの姫殿下、なんと、あの巨大像の建設を止めて見せたぞ」
「いや、バルタザル……、それはさすがにミーア姫殿下を馬鹿にしすぎだろう」
ルードヴィッヒは呆れ顔で首を振った。
「あれを止めるのは、当然だろう。いくらかかると思ってるんだ?」
理の当然といった様子の旧友に、けれど、バルタザルは首を振った。
「いや、そうでもないぞ。歴史的に見て巨大像に憧れる統治者というのはかなり多い。肥大化した自己顕示欲は腐敗した統治者の特徴だ。その欲求に負けて国の財政を傾かせる者というのも少なくはない」
「なるほど、確かにその通りだな……。ミーア殿下に仕えているうちに、どうも、帝国の叡智を基準に物事を考えてしまっていたようだ」
ルードヴィッヒは、バルタザルの言葉の正しさを認めた。
国中に自己の銅像を建てて、時間ごとにそれを拝むように命じた国王がいた。
世界で最も巨大な像を欲した皇帝がいた。
自己を崇めさせ、神格化しようとする欲求は、統治者にとっては非常に大きなものなのだ。
「あのお年で……、しかもあのような美貌をお持ちなのに、自己顕示欲に支配されぬとは……、なるほど、お前が心酔するのも少しわかるような気がするな」
腕組みしながら頷いて、それから、ふとバルタザルは首を傾げた。
「ときにルードヴィッヒ、お前はなにをやっているんだ?」
「ああ、師匠に姫殿下とお会いいただけるように、事前に約束を取り付けておこうと思ったのだが……」
ルードヴィッヒは苦笑を浮かべて、幕屋の方を見た。
「どうやら、なにか思索中らしい」
「なるほど、それでだんまりか。相変わらず師匠らしいな」
やれやれ、とバルタザルは首を振る。
「困ったものだな。我が師匠にも」
「ふふ、まったくだな」
肩をすくめて笑いあう二人だったが、
「ほほう、ずいぶんじゃなぁ。師匠の住処の前で……」
突如、かけられた声に飛び上がる。
慌てて姿勢を正し、視線を転じれば、そこには一人の老人が立っていた。
長く美しい白髪、同じく白くて立派な髭を伸ばしたその老人は、ルードヴィッヒの方を見て、にやりと笑みを浮かべた。
「ったく、人が考え事をしているというのに、騒ぎおって。集中できぬじゃろうが……」
「お久しぶりです。我が師」
ルードヴィッヒの礼を受け、その老人も深々と頭を下げる。
「うむ、我が弟子、ルードヴィッヒよ。壮健なようで、なによりじゃな」
胸のあたりまで垂れた長い髭を軽くなでながら、老人は言った。
「して、今日は何用できた? お前にはすでに教えることはないと言ったはずじゃが……?」
「はい。師匠のお力をお借りしたく、参上いたしました」
「ふふん、この老骨に何ができるとも思わぬが……」
「ぜひ、お聞きください。師よ。ことは帝国の存亡に関わることです」
真剣な口調で言うルードヴィッヒ。対して、老人は面倒そうに首を振った。
「聞いておるぞ。ルードヴィッヒ、お前、帝国の姫に仕えておるそうじゃな……。その関係か?」
「はい。ミーア・ルーナ・ティアムーン殿下にお仕えしております」
「噂に名高い帝国の叡智か。あまり気は進まんなぁ……ほれ、お前も知っておろう。わし、貴族嫌いじゃし……」
「それは存じております。その上でお願いしているのです。我が師よ」
「それほどなのか? ルードヴィッヒ。このわしに引き合わせようとするほどの?」
「僭越ながら……、私が生涯の忠誠を捧げようと、心を定めた方ですので」
その言葉に、老人は、わずかばかりに瞳を細めた。
「ほう、お前ほどの者がそこまで入れ込むか……。それは確かに興味深くはあるのう。バルタザル、お前も同じ考えかの?」
話を振られたバルタザルは、深々と頷いてから、
「人は王城、人は城壁……」
「ほう、その格言を知っていたか? なかなかに勤勉じゃな」
感心したように頷く老人に、けれど、バルタザルは首を振った。
「いえ、言葉自体は知りませんでした。されど、そこに含まれる真理をしっかりとつかんでおられた。格言を知らずとも、自らの思考によって一面の真理へと辿り着いておられた。あの方は……まさに叡智と呼ぶに相応しい方だと、私も判断いたします」
バルタザルは、先ほど見たミーアの姿を思い出して、かすかに鳥肌が立つのを感じた。
ルードヴィッヒから聞いてはいた。けれど、実際に目の当たりにした時の驚きは格別だった。
「我が師よ。ミーアさまとお会いください。そして、お話しください。ご自身の目で、あの方を見定め、そして、もしも師の心にかなうのであれば、どうかお力をお貸しください」
「ふーむ……まぁ、可愛い弟子のお願いじゃしなぁ。聞いてやらんでもないぞ? ほれ、お前たちも知っての通り、わし、優しいし」
どこがだよ! とツッコミを入れたくなる二人であるが、ここはぐっと堪える。
「ただ、そうじゃなぁ……。お前たちのことを疑うわけではないが……試させてもらおうかのぅ、東国の古の故事……三顧の礼をもって」
どこか不敵な笑みを浮かべる師匠に、嫌な予感をおぼえるルードヴィッヒであった。