第五十六話 ベルの無駄遣い
「それでは、いってらっしゃいませ、お気をつけて行ってきてください、ミーアお姉さま」
ルードヴィッヒの師匠は、現在、静海の森に滞在しているらしい。
帝国の少数民族の調査のために、彼らに交じって生活しているのだ。
そこで、ミーアはアンヌとルードヴィッヒとをともなって会いに行くことになったのだが……。
「ボクは行っても役に立たないと思いますので、帝都に残ります」
ミーアベルは、そう言って別行動を願い出た。どうしても、帝都でやりたいことがあったのだ。
「大丈夫ですの?」
心配するミーアであったが、結局はその願いを聞き入れて、別行動をとることになった。
そうして、なぜだか、ぐんにょりやる気がなさそうな顔をするミーアを送り出した後、ベルはリンシャとともに帝都ルナティアの散策に出かけた。
「今日は、どうされるんですか? ベルさま」
「はい。帝都を少し見て回りたいです」
ベルはリンシャの方を見て頭を下げる。
「すみません、リンシャさん。今日はたくさん歩きますね」
「別に謝っていただくようなことでは……」
比較的、斜に構えることが多いリンシャにとって、素直で純朴なところがあるベルは、ちょっぴりやりづらい相手だった。
――ていうか、ミーア姫殿下も大概よね……。もっと傲慢にふるまってもらったほうが調子が出るんだけど……。
などとため息を吐きつつ、リンシャは改めて尋ねる。
「それで、どちらに行かれますか?」
「そうですね。新月地区の方に行きたいと思うんですけど……」
「え……? あの、あそこって、元貧民地区ですよね……? 危なくないですか?」
「うふふ、リンシャさん、心配性ですね。別に新月地区は危なくなんかありません。ミーアおば、お姉さまをお慕いしている、優しい人たちがたくさんいるところですから」
ベルはなにやら意味のわからないことを言ってから、嬉しそうにちょこちょこと走り出した。
新月地区に入ってすぐに、ベルはきょろきょろし始めた。
それは、まるで何かを思い出そうとするかのように。
あるいは、今は見えぬなにかを幻視するかのように。
声をかけるのもはばかられて、リンシャは黙って、ベルに付き従う。
「あっ、あのお店……」
やがて、なにかを見つけたのか、ベルが走り出した。
「ちょっ、ベルさま!」
慌てて追いかけるリンシャの目の前で、ベルは寂れたお店に駆け込むと、
「えっと、おじさん……、そこのお菓子くださいな」
「はいよ、まいど。三日月銅貨五枚だよ」
威勢の良いおじさんに、にこにこ笑みを返しながら、ベルはリンシャの方に手を差し出した。
「リンシャさん、ボクのお小遣いをください」
「はいはい。もう、しょうがありませんね」
リンシャはため息を吐きつつ、ベルに硬貨袋を渡した。
すると、ベルは迷うことなく銀貨の中では二番目に価値が高い半月銀貨を取り出すと、店主に手渡し、
「お釣りはいりません。ありがとうございました」
「……へっ!?」
笑顔で固まる店主のおじさんに構わず、ベルは店を飛び出した。
「ちょっ! ベルさま! なにしてるんですか!」
リンシャは慌てて、ベルを追いかけた。
三日月銅貨五枚であれば、半月銀貨を出せば銅貨ではなく、れっきとした銀貨である三日月銀貨でお釣りで返ってくるはずだ。
お釣りはいらない、などと言って、チップ代わりにするにはあまりにも額が大きすぎる。
やがて、店主が追ってこられない位置まで走ったところで、ベルはようやく立ち止まった。
そんなベルを捕まえて、リンシャは苦い顔をした。
「ベルさま、どこでご覧になったのかは知りませんけど、ああいう風に格好つけるためにお金を無駄にするのは、よくないことですよ」
キザな貴族が好みそうな行動を、当然のごとくリンシャは咎める。
確かに、ベルにはお小遣いとして自由に使えるお金が渡されてはいる。けれどそれは、無駄遣いしていいということではない。なにかあった時のためのものなのだ。
「あんな風に無駄遣いしたら、ミーア姫殿下に怒られてしまいますよ」
そうリンシャが苦言を呈すると……、
「いえ、無駄遣いでは、ありません」
思いのほか、しっかりとした口調で返事が返ってきた。
強い意志の輝きを宿した瞳に貫かれ、リンシャは思わず息を呑んだ。
時折、ベルが見せる凛とした表情。
王者の風格すら感じさせるそれに、リンシャはハッとさせられるのだ。
――普段は全然忘れてるけど……、この子もミーア姫殿下の係累。大帝国ティアムーンの帝室に連なる者なのよね……。
わずかながら、身を固くするリンシャにベルはにっこりと無邪気な笑みを浮かべる。
「恩義を受けた者には、きちんと返さなければならない……。そのように、ミーアおば……お姉さまは言っておられました。だから、きっと大丈夫です」
ベルがなんのことを言っているのかは、リンシャにはわからなかった。けれど、少なくともベルが、わがままによって無駄遣いをしようとしているのではないことは分かった。
「よくわかりませんけど……、いいんですね?」
「はい。必要なことなので……。やらせてもらえると、嬉しいです」
そうして、笑みを浮かべるベルに、リンシャは小さくため息を吐くのだった。
「ミーアベルさま、これ、お食べください」
寂れたお店の前を通るたび、優しい声が聞こえてくる。
「ミーアベルさま。こっちだ。うちでしばらく隠れていくといい」
小さな家の前を通るたび、自分を助けてくれようとした人たちの声が甦る。
帝国を二分する戦い。荒れ果てて、地獄と化した帝都。そんな場所にも優しい人たちはいた。
司教帝の軍である聖瓶軍に追われたベルを匿ってくれた人たち、助けてくれた人たちは確かにいたのだ。命を散らしてでも、ベルを愛し、守ってくれた人たちが。
ベルはそれをおぼえていた。
一つ一つ忘れずに、大切に胸にしまい込み……、いつか機会があればお礼がしたいと思っていた。
「恩を受けたならば、忘れることなく、必ず返さなければいけない……」
偉大なる祖母ミーアから受け継がれた大切な教えを胸に、ベルは新月地区を走り回るのだった。