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第五十五話 ニガシマセンワ……

 新月地区の孤児院では、読み書きと計算の基礎を教え込んでいる。それは中央正教会のすべての孤児院で行われているのと同じで、その教育はそれなりの水準であり、まず良心的といってもよいものだった。

 それは、孤児院を出ていく子どもたちが自分の力で生きられるようにするための最大限の配慮だった。

 けれどそれでも……、そこを出て行った者のすべてが幸せになれるわけではない。

 孤児院を出て、とある商家に引き取られた少女、セリアもその一人だった。

 セリアは孤児院きっての優等生だった。

 いつも真面目に積極的に文字を学び、本を読んだ。

 どこかの学校に入れば、きっと偉大な学者になるだろうと言われた彼女であったが……その機会はついぞ訪れなかった。

 商家に引き取られた後の彼女の生活は、幸せなものではなかった。

 もちろん、食べるものがあるだけマシで、住む場所があるだけマシで、着るものがあるだけマシだ。

 親もなく、貧民街で育った彼女にとって、それは望みうる最高の環境であったのかもしれない。

 贅沢を言い出せばきりがない。

「満足するべきだ。まともな人間として生きていけるんだから……」

 そう自分に言い聞かせて、彼女は自らの感情にふたをした。

 諦めたのだ。

 そうして、彼女のその知性は本来の力を発揮することなく……なにか、素晴らしいものを生み出すかもしれなかった、その可能性の種子は芽吹くことなく。

 柔らかな土に落ちることも、水を注がれることもなく、静かに砕けて散った。

 徐々に年老いていき、知性のきらめきを失ったセリアは病床の中で自らの人生を顧みる。

 口惜しさはあった。けれど、それ以上に大きかったのは枯れ果てた諦め。

「仕方ない。私は孤児だったんだから……。ベッドの上で死ねることに感謝しなくてはいけないね」

 そうして、彼女のすり切れたような人生は幕を閉じた。


 ……そんな夢を見た朝。

 孤児院のベッドで目を覚ましたセリアは、深い絶望の中にあった。

 どれだけ頑張ってもすべてが無駄に終わる……。

 それを否定したくて、がむしゃらに勉強してみるのだけど……。やればやるほどに、自身の道が行き止まりであることを実感してしまう。

 そんな折、その少女はやってきた。

 輝ける帝国の栄光。帝国皇女ミーア・ルーナ・ティアムーン。

 この孤児院の恩人で、新月地区を変えた人。

 お茶を持っていくように修道女に言いつけられたセリアは、粗相がないよう最大限の注意を払って、自らの仕事を遂行した。

 そうして、部屋から出ようとしたまさにその時、当のミーアが話しかけてきた。

「ねぇ、ちょっとそこのあなた、よろしいかしら?」

「……え? 私、でしょうか? あの、わ、私、なにか……?」

「いえ、やはりこういうことは当事者の意見を聞くべきかと思いまして」

 ミーアは、じっとなにかを訴えかけるようにセリアの瞳を見つめてから、笑みを浮かべた。

「ねぇ、あなた、勉強はやっぱり優しい先生に教わりたいですわよね?」

「……どういう意味ですか?」

「あなた、たしか先ほど、熱心に書き物をしていた子ですわよね? それってやっぱり、ここの修道女さんが優しいから、やる気になるんですわよね? もしもの話ですけど、この孤児院の修道女さんが、ものすごーく厳しい方だったら……、理不尽じゃなくても、自分が間違えた時には的確にそれを鋭くえぐってくるような、鬼のような人だったら、やる気にはなりませんわよね?」

 ミーアは厳格で、恐ろしくすら感じられるような声で続ける。

「もしも、あなたが無料で学校に通えると言われたとして、そこの先生がものすごく厳しい先生だったら、通う? どれだけ苦しくても辛くても勉強を続けるものかしら? 逃げ出してしまったりするんじゃないかしら?」

「……そんなの、関係ない」

 気づけば、セリアは言っていた。

「厳しくっても、苦しくっても、辛くても学ぶことができるなら……、希望があるなら……。私は勉強したいです。理不尽だって構いません。教えてもらえるなら……希望があるなら、それが見えているなら、頑張れます」

 セリアに立ちふさがるのは、高い山ではない。

 ただの、無慈悲な壁だ。

 つるつるとして、手をかける場所さえないから、乗り越えることも壊すことも不可能。ただ、彼女が前に進めないようにするためだけにあるような、残酷な壁なのだ。

 山であれば、どれだけ高くても、頂上まで辿り着ける希望がある。

 けれど壁ではどうにもならない。諦めてその前に座り込むことしかできない。

 そんなセリアにとって、ミーアの問いかけに対する答えは明白なものだった。

 どれだけ険しくても、山であれば……つまずき、傷つき、転がり落ちて死んでしまったとしても……、そこには希望がある。頂上を目指して前に進める可能性があるのだ。

 ならば、頑張れる。

 セリアは、まっすぐにミーアの瞳を見つめて言った。

「もしも勉強をさせてもらえるならば、私だったら、どれだけ厳しくっても頑張ります。学ぶことのできる環境を与えられて頑張れないなんて、贅沢な話だと思います」

 と、そこまで言ってしまい、セリアは青くなった。

 帝国皇女に対して、セリアは相当に礼を失した物言いをしてしまったのではないか?

 慌てて謝ろうとしたセリアだったが……、ふとミーアの方を見て思わず言葉を失った。

 ミーアが、その瞳にいっぱいの涙を湛えていたからだ……。

「では……、あなた、その言葉をしっかりと実現なさい」

「え?」

「今、わたくしは、ここに誓いますわ。もしも、わたくしが厳しい厳しい学園長を無事にスカウト出来たら、あなたはわたくしの学園に通いなさい。そして、学園長に直接いろいろなことを教わるのです」

「え……? え?」

「あなたが言ったのですわ。学びたいと……。その責任を取りなさい」

 セリアの肩を力強く握り、ミーアは声を震わせる。

 突如、目の前に開かれた道に、セリアはただただ驚き、言葉を失った。


 すぐそばでそれを見ていたルードヴィッヒは、感動に打ち震えるミーアを見て、自身もわずかながら、心が震えるのを感じた。

 ――ミーア姫殿下は変わらないな……。相変わらず、情に厚い方だ。

 恐らくは、この孤児院の少女の思いにミーアは打たれたのだ。そして、

「ルードヴィッヒ、あなたにも当然、手伝っていただきますわ。ともに来ていただきますわよ!」

 自らを奮い立たせるような声で、ミーアは言った。

 厳しい教育を受ける子どもたちを心配して、いろいろ懸念していたミーアであったが、生徒として受け入れる対象の、孤児院の子どもの覚悟を受けて、自身も覚悟を決めたのだろう。

「もちろんです。最大限、私も協力させていただきます」

 ミーアに仕えることができて自分は幸せ者だと実感するルードヴィッヒであった。


 さて……、まぁ、すでにお気づきのこととは思うのだが、当然、ミーアはセリアの覚悟に感動したわけではない。

 ルードヴィッヒの師匠に会いに行きたくないがゆえに……、ミーアは最後の希望にすがったのだ。

 すなわち、学園に実際に通うかもしれない生徒の声である。

 ミーアの常識からして、勉強などというものは、厳しくされてまでやりたいものではない。

 帝国皇女という立場から勉強しないわけにはいかないが、できれば優しく、楽にやりたいものなのだ。

 それゆえに……。

 ――きっと、この女の子だってやりたくないって思うに決まってますわ。そもそも、庶民は読み書き計算ができれば普通に暮らせるのでしょうし。小難しい勉強を、厳しく怒られてまでやりたいなんて思わないはず……。そして、当事者がそんなことを言っているのを聞けば、ルードヴィッヒだって、お師匠さまをスカウトするのを諦めるはずですわ!

 そのような計算のもと、少女に話を振ったミーアであったが……見事に玉砕する。

 ――ああ、やはり……、わたくしがルードヴィッヒの鬼師匠に嫌味でボコボコに殴られるのは、変えられない流れなのですわ。

 悲嘆の涙を瞳に浮かべたミーアは、ぎんっ! と少女を睨みつける。

「では……、あなた、その言葉をしっかりと実現なさい」

 呆然とする少女の顔を見て、逃がさない、とばかりにがっちりその肩を握りしめる。

――好き勝手なことを言っておきながら、逃げようったってそうはいきませんわ! 厳しいのがいいですって? いいでしょう……ならば、あなたの望み通りにして差し上げますわ。

 ミーアはにやりと意地の悪い笑みを浮かべる。

「今、わたくしは、ここに誓いますわ。もしも、わたくしが厳しい厳しい学園長を無事にスカウト出来たら、あなたはわたくしの学園に通いなさい。そして、学園長に直接、いろいろなことを教わるのです」

――ええ、ええ、わたくし一人が苦労するなんて絶対に許しませんわ! きちんと自分の言った言葉の責任は取っていただきますわ!

 自分だけが嫌な思いなんて絶対にしない。そんな執念とともに、ミーアは誓いを立てる。

 周りを積極的に巻き込んでいくスタイルである。

 かくて、セリアは半年後、ミーア学園に入学することになった。


 ちなみにこの時にミーアが言い出したことは、後に孤児院からの選抜によって構成される学園長直轄の特別クラスという形で実現することになる。

 ルードヴィッヒたちを放浪の賢者の教えを得た第一世代とするならば、ここに集った子どもたちは第二世代の賢者の弟子たちと言えるだろう。

 放浪の賢者の教えを受けた子どもたちは、第一世代の者たちに引けを取らぬ才能を発揮していく。

 そして、彼らには第一世代にはない、一つの思いがあった。

 それは、皇女ミーアに救い上げられたという感謝の気持ち。そして、それは揺らぐことのない忠誠心へとつながる。

 ミーアの寵愛を受けた彼らは、成長し、少壮の官吏として各月省に入省する。そこで、女帝ミーアの目指す改革(とルードヴィッヒが説明するもの)を実現すべく、その才能をいかんなく発揮していくことになる。

 そんな、次世代の帝国を支える能吏たちの筆頭であるセリアは、万能の才女として、宰相ルードヴィッヒから重用されることになるのだが……。

 それは未だ実現していない夢幻の未来の光景。

 その夢が、現実のものとなるか否かは、ほかならぬミーアの肩にかかっている。

 いるのだが……。

「ふぐぅ……、ど、どうして……こんなことに……」

 そんなこととはつゆ知らず、涙にくれるミーアなのであった。

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